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落語 昭和の名人 古今亭志ん生(壱)

2718102109酒と博打と貧乏と

--落語のような人生

 戦後の落語黄金時代を彩った幾多の名人上手のなかでも、突出した人気を誇ったのが五代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)である。

「面白けりゃア、いいんだよ」
 それが口癖だったという志ん生の芸は、盟友の八代目桂 文楽(かつらぶんらく)との対比でよく語られる。一点の狂いもなく磨きぬかれた名人・文楽の芸を〝楷書〟にたとえるなら、志ん生のそれはいわば〝草書〟のなぐり書きの面白さ。六代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)をして「道場で面籠手(めんこて)をつけて立ち合えば私が勝つが、野戦になったら斬られてしまう」といわしめた、の天衣無縫な芸である。生前の志ん生をよく知る、演芸評論家の矢野誠一(やのせいいち)のさんも言う。
「文楽の場合は一点一画もおろそかにしない芸質で、噺のひとつひとつが完成品。その出来はつねに安定していた。ところが、志ん生は自由奔放で、興がのれば40分かける噺も、気がのらないと5分でやめてしまう。それでいて、ちゃんとサゲ(落ち)までもっていく自在さがすごい。元来、落語というのは〝芸=人格〟といえるほどにパーソナルな芸ですが、志ん生なら何をどうしゃべっても落語になってしまう、そういう魔力がありました」
 時に登場人物の上下の位置を混同、噺がとんでもない方向に走ってしまうこともままあった。それでも、客は爆笑に次ぐ爆笑、その熱気に会場が揺れるようだったという。
「凄く才能ある者が精進することで、文楽にはなれても、志ん生にはなれない。人間・志ん生がまるごと出てくる芸でしたから」
 志ん生の酒好きは有名だが、酔ってへべれけのまま高座に上がり、怪しい呂律で噺が混乱。そのまま噺半ばで眠り込んでしまったこともあった。これがほかの噺家ならとうてい許される仕儀ではないが、志ん生の場合はそれすらも愛すべき芸のうち。客席からは「おい、風邪をひかしちまうぞ、何か掛けてやれ」の声が飛んだという。そんな逸話が残るのも志ん生ならではのことだ。さて、噺半ばで眠り込み、ふと目を醒ました当の志ん生--。
「噺をするのが、どうも面倒になっちまいまして。ええ、なんですなア、きょうは、手踊りでもひとつやりましょう」
 そんな一挙手一投足に、客は笑いを見つけては、志ん生を味わいつくしたのである。

真打披露準備金が呑み代に消えた

 志ん生には落語を地でゆくような、とくに酒にまつわる武勇伝がいくつもある。
 大正12年(1923)9月1日正午前。関東一円を大地震が見舞った。大慌てで家から飛び出して一目散に駆け込んだのは、近所の馴染みの酒屋。「酒が地面に呑まれちまうんじゃあ、もったいねえ」と危惧したからだ。
「酒ェ、売ってください!」
「ゼニなんぞようがす。あたしたちは逃げますので、お好きなだけお呑みなさい」
 酒屋の主人に許しを得た志ん生は四斗樽の栓を抜き、ひとりぐいぐい呷り出す。1升5合ほども堪能してから、ひどい余震が続くなか、逃げまどう人を横目にへべレケの千鳥足で帰宅。その手にはなお、一升瓶2本を後生大事に抱え込んでいた。
 志ん生が酒を覚えたのは、まだ10歳になるかならないかの時分である。買いに行かされた酒に途中で口をつけ、水を足して持ち帰るような按配だったらしい。当時4年制だった尋常小学校は、素行不良のため卒業間際に退学処分。15歳のころには酒は呑む、博打は打つ、女郎買いはするいっぱしの不良で、巡査だった父親の年金証書を持ち出しては、これを抵当に金を借りて遊び歩いた。
 ついには怒った父親に危うくで突き殺されそうになって逃げ出し、そのまま家には生涯寄りつかなかった。
 17歳で落語家修業に踏み出してからも、三道楽はあらたまるどころか、いよいよ磨きがかかる一方だったが、さて--。
 真打披露を3か月後に控えたころ、寄席の大旦那が志ん生のため、200円の大金をポンと用立ててくれた。門出にふさわしい新しい高座の着物一式を揃えろという配慮である。ところが、志ん生はそのまま酒屋に飛び込み、挙句は吉原へと繰り出す始末。お披露目の当日は相変わらずのヨレヨレの着物で現われた。
「え、まさか、その身なりで?!」
 大旦那が驚きれるのも無理はないが、開き直った志ん生の啖呵がふるっている。
「頼みもしないのに、勝手に貸してくれたんじゃねえか。3か月も前のゼニなんぞ、今ごろあるわけがねえ。ナリを見せるんなら、呉服屋の旦那でも連れてくりゃあいいんだ。あたしゃ噺家だ。芸を聞いてもらいます」
 酒の武勇伝といえば、太平洋戦争の空襲のさなかにもある。銀座で貴重なビールをたらふくご馳走になった帰り途。空襲警報に追われて逃げたが、手には土産に持たされた大土瓶いっぱいのビールがあった。途中転んでも、この大土瓶だけは手放さず、ついには度胸を据えて、頭上に爆撃機が飛ぶ音を聞きながら呑みはじめた。夜明けに気がついてみると、空の大土瓶を枕に寝ていた。
 同じ戦時中のこと、築地の待合(貸席)で横綱双葉山の前で一席うかがった後、酒の呑み比べになった。2升の酒を呑み干したが、さすがに横綱には勝てず完敗。酩酊状態で、おりからの雪道を足袋裸足で転げながら、やっとわが家にたどり着いたときは、もう全身泥だらけの体たらくだった。この時期、庭に掘った防空壕の入り口に置き、逃げるとき、いつでも持ち出せるようにしていたのも酒である。
 さて、志ん生が三遊亭圓生とともに満州(中国東北部)慰問に出かけたのは、終戦間際の昭和20年5月。その動機も、じつは酒を呑みたい一心だった。長女の美津子さんがいう。
「うちのお父さんは空襲警報が鳴るたび、ただ闇雲に駆け出して、結局は迷子になってしまうくらい、ものすごい怖がり。でも、満州は空襲もないし、まだお酒が呑める、そう聞いて出かけていったんですよ」
 慰問はひと月の予定だった。それが敗戦の混乱で命がけの2年にも及ぶ長旅になるとは、ついぞ思わずに出かけたのだ。満州ではを辛酸をなめつくし、絶望のあまり自殺も試みた。その方法がまた、いかにも志ん生らしい。ウオツカ6本をがぶ呑みして、急性アルコール中毒死を図ったのである。しかし、よほど酒とは相性がいいのか、やがて目が醒めた。
 結局は胃がただれたくらいですみ、晴れて帰還の日を迎えた。そのおり、家族に宛てて打った志ん生の懲りない電報はこうだ。
「○○ヒ(日)カエル サケタノム」
(続きは、『落語 昭和の名人 古今亭志ん生(壱)』でお楽しみ下さい)

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