落語 昭和の名人決定版 三遊亭圓生(壱)
生涯未完でありたい
ーー登り続けた芸の道
昭和の落語黄金期に活躍した主役たちの中でも、描写力の確かさと演目の多さで群を抜いていたのが六代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)。その精妙巧緻な話術で『文七元結(ぶんしちもつとい)』『鰍沢(かじかざわ)』『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』『牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』など、とりわけ人情噺・怪談噺に優れた芸境を拓いた名人である。
門下の三遊亭圓丈(えんじょう)師匠が言う。
「圓生の噺をはじめて聴いたとき、そのものすごく正確な描写力にカルチャーショックを受けたんですよ。弟子になるなら、この師匠だと。実際、それは間違いなかった。たとえば『火事息子(かじむすこ)』を教わったときは、目線の使い方が素晴らしく優れていて、火事で蔵の戸から炎が噴き出す場面では、瞬間、圓生の目の中に“炎”が見えた。目線ひとつで、そこにあるもの、距離をはっきりとわからせる。うちの師匠は本当に凄い、死にものぐるいで一生かかって努力しても絶対に追い抜けないと、そう思い知らされました」
圓丈師匠の入門は昭和39年。桂文楽(かつらぶんらく)の跡を受けて、圓生が落語協会会長に就任するのは翌40年で、文字どおり芸の円熟期にあったころ。その持ちネタは優に300を超えていた。圓生も「あたしは一度放送したものは最低1年は出しません」、そう演目の多さを自負してもいた。
圓丈師匠によれば、その記憶力の凄さは数だけの問題ではない。ひとつの噺をばらばらにして自在に出し入れができたことだ。
「50分の噺を30分で演るときには、ふつうは途中で切ってしまう。噺を再構成して、いったん短く縮めてしまうと、もうもとには戻せない。でも、噺をばらばらにして、好きに取り出せたのが圓生です。あれは通常の記憶力ではない。さらに何段階も上の、次元の異なる記憶です。いってみれば、昔の“語り部”の域に達していたんじゃないかと思います」
圓生自身は自伝『寄席育ち』のなかで、事もなげにこう言っている。〈抜こうと思えば抜ける、入れようと思えば入れられるし、言い方を変えてみることも出来る。それがあたりまえのことで、時間の延び縮みが自由に出来なければ商売人じゃァありません〉。
この尋常ならざる記憶力の自在さは、いかにして培われたものだろうか。
「圓生の凄さは、その稽古量です。歳をとれば、どんどん噺を忘れてゆくものですが、圓生は300を超える持ちネタを片っ端からエンドレスで稽古しつづけていた。少しでも時間があれば、稽古が始まる、ごちゃごちゃ口が動きはじめるんです。僕らは努力して稽古をしますが、無意識で自然のうちに稽古できるようになるまで、努力をしたのが圓生です」
高座が終わって帰りの車に乗り込む。そのドアが閉まった瞬間に、圓生の噺の稽古、独り語りが始まるのが常だったという。
寄席の代演で、9歳で噺家デビュー
圓生はふだんの暮らしの中でも江戸言葉を使っていた最後の噺家といわれる。大阪の商人言葉や京言葉もきわめて正確だった。端正な芸風から生粋の江戸っ子に思えるが、じつは関西の出身だ。〈江戸っ子のつもりでおりますが、本当は大阪でとれましたんで〉(『寄席育ち』)、そう当人がいうように明治33年(1900)、大阪市西区で生まれている。
東京へ出たのは4歳のころ。もと芸者だった母親に鍛えられて、5歳の時分には豊竹豆仮名太夫(とよたけまめかなだゆう)の名で義太夫語りとなり、母子で寄席に出演するようになった。噺家に転向したのは9歳のときだ。寄席を休んだ噺家の穴埋めに「あたいが噺をしようか」と買って出たのがきっかけだった。楽屋で聴き覚えた音曲噺(おんぎょくばなし)『箱根山(はこねやま)』の一席を語って大喝采を受け、翌月には噺家の仲間入りをしたのである。
まもなく、母・さだが再婚した相手はのちの五代目圓生。そもそも三遊亭圓生の名は“三遊派”のもとになった大名跡(だいみょうせき)で、六代目を継いだのは昭和16年、41歳の折。すでに持ちネタはずば抜けて多かったが、本当の意味で芸に開眼するのは戦後になってからだ。
太平洋戦争末期の昭和20年5月、圓生は古今亭志ん生(ここんていしんしょう)とともに満州(中国東北部)慰問に出かけた。かの地で敗戦を迎えて辛酸をなめつくし、命からがら日本に帰り着いたのは昭和22年3月。以後、「圓生は巧くなった」という声がしきりに囁かれるようになった。満州での苦労が人間理解を深めさせ、噺に、より生彩と陰影を与えたものらしい。
圓生には名人に特有の気難しい一面もあった。周囲からは自身の主張を曲げず、和することの少ない、ある種の狷介さをもった人物のようにもみられていた節がある。しかし、それは圓生の芸に対する姿勢の厳しさからくる誤解で、決して狭量な人ではない。その証拠に、一門の弟子に限らず、稽古を望む者は誰でも受け入れて、断わらなかった。
「圓生のところには古今亭志ん朝(しんちょう)師匠や柳家小三治(やなぎやこさんじ)師匠をはじめ、いろいろな人が噺を教わりに来てました。教えるのが好きな人ですから、断わらない。その稽古を私も横で聴いてるんですが、これが勉強になったんですよ」
そう話すのは圓生の孫弟子にあたる三遊亭鳳楽(ほうらく)師匠。三遊亭圓楽(えんらく)の総領弟子だが、昭和41年の入門当初から大師匠の圓生に預けられて、その薫陶をじかに受けてきた。
圓生の稽古は厳しいことで定評があったが、鳳楽師匠の経験はこんなふうだった。
「おまえ、いま、何を呑んだんだい?」
「え、あの……酒でございます」
「ほォ、酒をそうやって呑むかねえ。ま、酒なら酒でよござんすが、それは冷やかい、温燗かい、熱燗なのかい? 器は猪口か、茶碗か、どんぶりか? 嬉しくて呑んでいるのか、悲しくて呑んでるのか、それとも自棄で呑んでるのか、どうなんだい? おまえ、そういうのを一杯呑んだだけで、お客がちゃんとわかるように演らなきゃァいけませんよ」
いきなり、圓生の口うるさく容赦ない、芸に対する小言の洗礼を受けたのである。
「じゃあ、おまえ、演ってごらん」
そう圓生に促されて、覚えたての噺を始める。しかし、そのそばから当の圓生は弟子に金盥や剃刀を運ばせて、やおら髭をあたりはじめる。途中、電話が鳴れば受話器も取る。そんなときは、ついつい噺も止まってしまうが、そうすると圓生はすぐさま言う。
「おい、おまえさん、続けて演ってなさい」
一度は、噺なかばで圓生が憚りに入ったきり出てこないことがあった。このときも思わず噺をやめたが、とたんに、
「おおい、聞こえませんよォ」
日常のいろいろな用事をしながらも、圓生は稽古をきちんと聴き、メモをとってはあとで事細かく手直しをしてくれたという。
「指摘されたことを頭において、また一生懸命に稽古していくと、また直される。その繰り返しで、ひじょうに稽古は厳しいけれども、圓生が“お客の前で演ってもよろしい”といえば安心で、自信をもって演れるんです」
(続きは、落語 昭和の名人 三遊亭圓生(壱)でお楽しみ下さい)
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