現存するどの音源を聴き比べても、誤差はわずか10数秒。誰にも真似のできない、文楽ならではの芸当。
――職人芸を極めた名人
23分30秒――。 桂文楽の『明烏』の寸法である。現存するどの音源を聴き比べても、誤差はわずか10数秒。まったく別の日、別の高座で演じられているにもかかわらず、その一言一句に違いを見つけるのが難しいほどだ。いっさいの無駄を省き、磨き抜いた噺だからこその23分30秒。ほかの誰にも真似のできない、文楽ならではの芸当である。
いついかなるときでも、完成された噺を完璧に演じきる。「芸」を「芸術」の高みにまで昇華させたのが文楽だった。それが評価されて、昭和29年、『素人鰻(しろうとうなぎ)』で落語界からは初となる芸術祭賞を受賞。昭和36年の紫綬褒章受章も落語家としては初めてだった。さらに昭和41年には、勲四等瑞宝章、『富久(とみきゅう)』で二度目の芸術祭賞を受ける。
文楽みずから「ウチの会社」と呼び、昭和28年から亡くなるまで専属契約を結んでいたTBSで、多くの演芸番組を手がけた川戸貞吉(かわどさだきち)さんも、その完成度のあまりの高さに舌を巻いたひとりだ。
「どの演目でも、いつ湯呑に手をかけるか、いつ扇子を持ち替えるかまで、寸分もたがわないんです。ネタに入る前の挨拶の口上でさえ決まっていました」
出囃子(でばやし)の「野崎(のざき)」が鳴ると、やや前かがみになって膝のあたりに扇子と白いハンカチを握り、袖からそそと出る――その瞬間から芸は始まっていたのだという。前口上も文楽にとっては噺のうち。言い回しを多少変えながらも、型を崩すことはなかった。
「いっぱいのお運びでございまして、ありがたく御礼を申しあげます。あいだへ挟まりまして、相変わらず、お馴染みのお笑いを申しあげることにいたします」
「あいだへ挟まりまして……」とは、前後の演者に挟まれて、という意味。このフレーズが使えなくなるから文楽はトリを取らなかったのだと、まことしやかに伝えられている。川戸さんは、笑ってそれを否定するが……。
「実際は、寄席ではトリも勤めてましたよ。ただ、ラジオやテレビが入っているときは、たしかにトリは取りませんでした。トリは、放送時間に合わせて噺を長くしたり短くしたり、寸法を変えなければならないからです。文楽師匠にはそれができなかった。不器用といえば不器用ですが、いじることができないほど練り上げられていたんです。言葉だけじゃありません。仕種のひとつひとつまで、無駄がなく洗練されていました。粋で、いなせで、きれいで、品がある。すべてが絵になった。しかも、声に艶があって、明るい。聴いていると幸せな気分になれるんです」
とはいえその遊びのない芸風は、落語通から圧倒的な称賛を得た半面、肩が凝っていけない、と敬遠する人もいた。それを象徴するエピソードがある。
上野の鈴本(すずもと)演芸場でトリを勤めたときのこと。文楽の出囃子が流れた途端、バラバラと客が席を立った。それでも文楽はいつもと何ひとつ変わらず、『景清(かげきよ)』を一席。一途な信心と孝行心で盲人の目があく……。噺が終わり袖に下がる文楽に、残った客は一斉に立ち上がって万雷の拍手を贈ったという。
同じ噺を同じ寸法で体験したい
同じ時代、文楽と車の両輪になって落語界を牽引したのが五代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)だ。互いを「孝ちゃん」(志ん生の本名、美濃部孝蔵(みのべこうぞう))、「並河(なみかわ)」(文楽の本名、並河益義(ますよし))と本名で呼び合うほどの大親友。放蕩三昧の志ん生が、怪しげな骨董品を持ち込んでお金の無心をしたのが文楽であり、文楽がこの世を去る10日ほど前、最後に酒を酌み交わしたのが志ん生だったという間柄である。
けれども、その芸風は対照的。細部まで緻密につくりあげる文楽に対し、自由奔放・天衣無縫と謳われた志ん生の噺は、高座に上がるたびに変幻自在に形を変えた。何が飛び出すかわからない志ん生のほうが、人気の面では一枚上だった。
高校・大学時代、ふたりの高座を何度も見たという料理評論家・山本益博(ますひろ)さんは言う。
「昭和落語史上最大の天才は、志ん生でしょう。圧倒的な才能がありました。でも、文楽ほど、とことん“藝”を追求した人はいません。お手本の中のお手本だと思います」
ちなみに山本さんの早稲田大学の卒業論文のテーマは、「桂文楽の世界」。文楽に魅せられ、大学4年間で80回以上、その高座を見たという人である。
「文楽の落語は何べんも聴く必要はない、という人もいました。どうせ同じなんだからと。でも文楽ファンは、同じ噺を同じ寸法・間合いで体験したい。今回も同じように笑わせてくれるかなという期待感で、寄席やホールに向かったんです。そして案の定、同じところで同じように笑ってしまう。われながら不思議なんですけどね」
つねに比較されつづけた盟友・志ん生の芸について問われると、文楽自身はじつにあっさりと答えたという。
「あの人とは芸風が違いますから」
歩んできた道のりへの、確かな自信と矜持。それにしても、だ。なぜそこまで文楽は芸を磨き上げることができたのだろうか。磨き上げなければならなかったのだろうか。
文楽は明治25年(1892)、青森県五所川原町(現・五所川原市)に生まれた。父・並河益功(ますこと)は大蔵省キャリアで、五所川原税務署長を務めていた。今よりもはるかに官尊民卑の時代、特権階級の恵まれた家庭であった。
そのまま何不自由なく育っていれば、落語との縁はなかっただろう。が、帰京後、9歳のとき父と死別。主を失った並河家は家計が傾き、文楽は小学校を3年で中退し、奉公に出される。そして、母の再婚相手の世話で初代桂小南(かつらこなん)に入門。桂小莚(こえん)の名を貰い、師匠の家の住み込みとなる。16歳のことであった。
(続きは、落語 昭和の名人 桂 文楽(壱)でお楽しみ下さい)
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