ホーム > 落語 > 本日は人間国宝の小さん師匠がお見えです。くれぐれも失礼があってはなりません。皆さん、決して笑わないように

前の記事

次の記事

落語

はてなブックマーク - 本日は人間国宝の小さん師匠がお見えです。くれぐれも失礼があってはなりません。皆さん、決して笑わないようにこのエントリーを含むはてなブックマーク Twitterにつぶやく

本日は人間国宝の小さん師匠がお見えです。くれぐれも失礼があってはなりません。皆さん、決して笑わないように

2718204109_2 剣と噺の両輪で
――鍛え抜かれた人格者

 五代目柳家小さんが、国の重要無形文化財保持者“人間国宝”に認定されたのは平成7年4月、80歳のときである。落語界では初の快挙だった。当時、寄席の高座では、こんな噺のまくらが流行ったという。
「えー、本日は人間国宝の小さん師匠がお見えです。くれぐれも失礼があってはなりません。皆さん、決して笑わないように」

 人間国宝の誕生を即座に笑いのタネにする落語界の健全なたくましさとともに、その高揚感もまた伝わってくる逸話である。
 もっとも、当の小さんには、人間国宝になることは喜びよりも、むしろ困惑の思いのほうが先に立つ出来事だったらしい。
 その小さんが嬉しさを隠しようもなく、それこそ手放しで喜んでみせたのは、剣道の範士になったときだ。こちらのほうが、小さん個人にはよほど幸せな出来事だったようだ。
噺家の頂点に立ち、落語界を長く牽引してきた小さんには“北辰一刀流の剣士”というもうひとつの顔があったが――剣道には昇段試験で得る段位とは別に「錬士」「教士」「範士」という三つの称号がある。これは剣技の腕前だけではなく、品格や剣道界への貢献度などさまざまな要素が加味された、総合的な審査によって与えられるものだ。
 とくに最高位の範士には、8段の実力者でも簡単にはなれない。しかし、小さんは7段で範士に推挙されたのである。
「もう満面の笑みで、あんなに嬉しそうな師匠は、まず見たことがありません」
 それが周囲の一致した記憶。柳家小さん87年の生涯でも最良の日といっていい。
 そんな範士の称号と並ぶ、もうひとつ嬉しい事件が小さんにはあった。昭和天皇の在位60周年のおり、園遊会に招かれて、陛下と親しく言葉を交わした日の感慨がそれである。
――大日本帝国陸軍の一部青年将校によるクーデター事件が勃発したのは、昭和11年2月26日未明。世にいう「二・二六事件」である。その反乱軍1500名の兵士のなかにじつは若き日の小さん、小林盛夫はいた。もとより、事情も知らされないままで、自分の意思とはまったく無関係だった。とはいえ、歴史的大事件の現場にいて「天皇の逆賊」の側に身を置くハメになったのである。
 それから半世紀に及ぶ歳月が過ぎて、いまこそ「初年兵・小林盛夫は陛下に許され、名誉回復ができた」、そんな感懐があったものに相違ない。それほど、園遊会のあとの小さんは心底幸せそうだったという。

芸人は驕った話をするな

 小さんにはふたりの師匠がいた。ひとりは四代目の小さんである。「心邪なる者は噺家になるべからず」という自戒を説いて、落語界一の人格者といわれていた。この四代目から、噺家としての芸と矜持を受け継いだ。
 もうひとりは八代目桂文楽(かつらぶんらく)である。小さんは戦地から復員してまもない昭和22年9月、小三治(こさんじ)の名で真打に昇進した。ところが、1か月間にわたる真打披露興行を終える最後の日に師の四代目小さんが急死する。そのために、文楽の預かり弟子となったのである。五代目小さんを襲名したのは、四代目の3回忌をすませた昭和25年秋のことだった。
 どちらかといえば芸一本槍の人格者だった四代目小さんに比べ、社交に長けていた文楽は人づき合いの極意をこう教えた。
「芸人は道化にならなくてもいいが、驕った話をしてはいけない。自分が失敗した話でもしていれば、相手は喜びます」
 もともと無愛想だった小さんも、座の取り持ち方などは、文楽について歩くうちに身につけたという。このとき、酒も覚えた。
 小さんは相当の酒豪だが、戦前まではもっぱら甘党で、酒など口にしない堅物だった。生代子夫人と所帯をもったのは昭和17年だが、結婚前の彼女に書いた手紙の文言が、その堅物ぶりの一端を物語ってもいる。
〈昨日のあなたは少し酔い過ぎです。女虎はみっともないです〉
 当時、彼女はバーを経営していた。客には寄席の芸人も多かったが、この媚びない堅物の噺家に惚れて贔屓となり、座布団などを贈るようになったのである。小さんも酒は呑まないが、店の居心地のよさに、つい足が向いた。帰りには、たたんだ着物の包みのなかに、彼女がご祝儀をそっと忍ばせてもくれたのである。そのうちに娘ができた。いまふうにいえば “できちゃった結婚”である。
 当初は夫婦喧嘩もよくした。きっかけは、気性が激しくやきもち焼きの夫人が、なんでもないことを勘ぐるのがほとんどで、最後は決まって派手な格闘技になった。「てめえ」「何をこの野郎!」。夫人は手当たり次第にモノを投げつけた。ただし、結果的に割れているのは安価なもらいものばかり。瞬時に品物を見極めてから投げていたのである。
――生代子夫人は自分を「オレ」と呼び、言葉遣いもぶっきらぼうで、了見も男っぽい人だった。しかし、戦後の生活の苦しい時期も亭主には「落語だけやってればいい」と言い、質屋の暖簾をくぐらせたことなどなかった。
 彼女の趣味はパチンコで、いつも決まった時間に出かけるのが日課でもあった。「オレがいない、その間、弟子たちは休めるだろ」という、じつは優しい気遣いからだった。
 晩年の夫人は、朝起きると居間で新聞を読んでいる亭主の後ろ姿をしみじみ眺める。オレは、この丸い頭を、あと何回見られるだろうか――そう思って愛おしさをひとしおつのらせる。それが終生の習いでもあったらしい。心底、小さんに惚れていたのである。
 夫婦はふたりの子供をもうけたが、家での小さんは、どんな父親だったのだろうか。
 長男の六代目小さん師匠が言う。
「起きてる間には帰ってこないし、朝、学校へ行くときはまだ寝てる。だから子供の時分は、父にはほとんど会っていないんですよ」
 六代目が噺家の道を歩き出したのは、もちろん父の影響だ。小さいころから父の独演会で小咄や踊りを披露したりもしていた。
「おまえ、噺家になるなら、中学を出たらすぐになれ。噺家には学問は要るけれども、学歴は要らない。高校へ入ったってロクなことはない。そう父にいわれて決心しました」
 小さんは早くから、息子を噺家にしたいと考えていた節がある。互いの芸に惚れ込み、義兄弟の盃を交わしていた三代目桂三木助(みきすけ)には「息子が噺家になったら預けるからよろしく頼む」、そう申し入れてもいたのである。
 この約束は早すぎる三木助の死によって実現はしなかったが、さて――。
「父は、噺は盗んで覚えろという人で、私がじかに教わった噺は5つくらい。これでも多いほうで、そこは倅だからという部分かもしれませんね。一緒に地方へ出かけたときなどは、高座から下りるなり、おまえの噺はここが悪い、あそこが悪いと、ダメ出しが楽屋で延々30分以上続くんですよ。最後のせりふはいつも同じで “遊んでばっかりいるからだ”。
いま思えばありがたいことなんですが、当時は私もまだ20代のころですから、この親父の説教はホントに嫌でしたねえ」
 おりに触れて、父の小さんから六代目が繰り返し聞かされていたせりふがある。
「愚痴をいうな。その暇があったら稽古をしろ。世の中は回っている。自分の出番は必ずくる。その準備をいましておくんだ」
 師の教えには違いないが、そこに父親としての小さんの情愛が透けてみえる。
(続きは、落語 昭和の名人 柳家小さん(弐)でお楽しみ下さい)

前の記事

次の記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:

この記事へのトラックバック一覧です: 本日は人間国宝の小さん師匠がお見えです。くれぐれも失礼があってはなりません。皆さん、決して笑わないように: