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本格派と人気タレント。そんなレッテルを世間から貼られてしまう。落語界で初めてその分類をまぬがれた三代目古今亭志ん朝

Photo 役者になりたかった

--芝居の感覚を落語に

 戦後の落語界を代表する本格派の名人にして、同時にタレントや役者としても大いに活躍したのが三代目古今亭志ん朝だった。

 本格派と人気タレント。落語事情に精通して、志ん朝と親交が深かった京須偕充(きょうすともみつ)さんによれば、この両立はきわめて稀な例という。
「日本の伝統芸能の世界では、当人の意識とは別に、本格派か人気タレントか、どちらかに分類したがる傾向がひじょうに強いんです。好むと好まざるにかかわらず、そんなレッテルを世間から貼られてしまう。ところが、その分類をまぬがれた、落語界では初めての人が志ん朝さんです。世間の出来合いの照明をかき消してしまうほど、志ん朝さんの存在は強い光彩を放っていたといっていいですね」
――父は五代目古今亭志ん生、兄は十代目金原亭馬生(きんげんていばしょう)。そんな落語の名人一家に生まれ育った志ん朝が、子供のころから一貫して好きだったのは芝居である。具体的な夢は役者になることで、中学・高校時代は自分からすすんで芝居を見に出かけていた。いちばんの憧れは歌舞伎の役者で、それが難しければ新国劇、それもダメなら大阪へ行って新喜劇の役者になりたい、そう本気で思っていた。
 しかし、父の志ん生から「落語家になれ」と懇々と説得されて、日本大学芸術学部演劇科に願書を出す準備をしながら、一転して噺家への道を踏み出したのである。
 後年、志ん朝はテレビ時代劇『鬼平犯科帳』(東宝制作)で火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の木村忠吾役を長く演じて人気を博した。これはもっとも気に入っていた役柄のひとつだったが、原作者の池波正太郎は小説家になる前は新国劇の脚本を書いていた。当時、池波は落語家になったばかりの志ん朝の資質に「若いころの六代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)」を重ね見て、新国劇の後継者に育てたいと半ば本気で考えていたほどだった。そんな経緯を当の志ん朝は知るわけもなかったが、彼の役者としての天分は隠しようもなく、表に現われていたというべきだろう。
 真打昇進は、父の志ん生が脳出血で倒れた翌年の昭和37年。テレビや舞台への出演も、がぜん多くなっていた。そんなある日、朝6時に家を出ようとすると、起き出してきた父からこう呼び止められた。
「おまえ、朝から何してんだい?」
「テレビの撮影があるんだよ」
「ふうん、つまんねえことしてやんなあ。新聞配達にでも行くのかと思ったよ。噺家がこんなに朝早く起きてちゃダメだよ」
 若くして江戸落語の名人の座に駆け上がってゆく志ん朝の軌跡は、よくも悪くも父・志ん生の存在と影響を抜きには語れない。

芸人は明るくなきゃいけない

 志ん朝の持ちネタの3分の1は父の志ん生からじかに教わったものだ。それ以上に落語という芸を身につけるうえで大きかったのは、志ん生が家で晩酌しながら行なう独り語り、あるいは兄の金原亭馬生と交わす芸談だった。子供の時分から自然に耳に馴染んでいた父の芸談は、いつしか身体に沁み込んでいた。
 多少の紆余曲折を経て、噺家になると決めたとき、父がまず通わせたのは八代目林家正蔵のもとである。古格を重んじて、噺の基本を大事にする、考え方も理論的な正蔵に、父は息子の巣立ちを託したのだ。
 志ん朝自身が「大きな影響を受けた」と語っているのは、父とはまったく対照的な芸風の八代目桂文楽。文楽はひとつの噺を何年もかけて、言葉を慎重に選び抜き、幾度も書き直しては完成させた。その芸に対する几帳面で真摯な姿勢と、明るさに惹かれたという。
 文楽に倣って志ん朝も、ひとつの噺を納得ゆくまで時間のヤスリをかけて磨き、言葉を鍛え上げた。父の十八番だった『火焰太鼓(かえんだいこ)』や『お直し(おなおし)』なども、志ん朝があらためて古今亭のお家芸に鍛え直したといっていい。
 その志ん朝の高座には圧倒的な“華”と“艶”があった。それは天性の資質には違いないが、自身も「芸人は明るくなきゃいけない」と言い、そう努めてもいたのである。
 江戸の粋といなせを一身に体現していた、三代目桂三木助にも噺を習った。六代目三遊亭圓生にも教えを受けた。ことに圓生に対しては、その芸を「後世に伝承しなければ」という使命感に突き動かされるようにして接し、勉強した。そうした名人たちから吸収した至芸の数々は、天分に磨かれ、志ん朝落語として見事に開花するのである。
 古今亭志ん朝の噺家としての日々は、志ん生との闘いでもあったらしい。名人だった父と同じ仕事を選んだ宿命である。
「いやあ、きょうは凄くよかったよ。以前、お父さんの噺を聴いたときは……」
 客からの芸の評価にも、いつも父との比較がつきまとって鬱陶しい。自然、父から教わった噺を高座にかけるときは、“このくすぐりは自分の年齢ではおかしくないか”“ここの口調を真似て不自然ではないか”、ふだん以上に神経質にならざるをえなかった。
 とくにホール落語などの大きな高座が近づくと、1週間前から好きな酒も断った。期待の大きさにこたえて芸に完璧を期すためだ。
 しかし、志ん朝の精神に必要以上の過重を強いたのが父の存在だとしたら、その重石を取り除いたのもやはり父だった。
「おまえ、たかが噺家じゃないか。落ちぶれたって、大きな会社の社長が乞食になるのとはわけが違うよ。あたしらは、出世したって噺家だし、落ちぶれたって噺家だよ」
 芸に迷い悩んでいたとき、父が口にしていた言葉が胸に兆して、ふいに肩の力が抜けた。以来、ずいぶん気が楽になったらしい。
 志ん朝は噺家になってまもないころから、芸の上達を願って大好きな鰻を断ち、これを終生口にはしなかった。のみならず、何か事あるごとに「酒を断つ」あるいは「煙草を断つ」など、自分の身を律して芸に精進するための願掛けを行なっていたという。
 ある日のこと、志ん朝は贔屓筋の招待で出かけてしたたかに酔い、帰り着いた自宅の玄関先で不覚にも転んで、額を何針か縫う怪我をしてしまった。その醜態が面目なく、「酒は1年間やめる」。それから1年間は何があっても酒は口にしなかった。当時、志ん朝について歩いていた弟子の古今亭志ん橋(しんきょう)師匠によれば、昭和50年代も半ばごろのことだ。
「その夏は、住吉踊りで一緒にあちこち回っていたんですが、酒を断った師匠は自分は呑めないものだから、口にするのは甘いものばっかり。“おい、この饅頭うまいぞ”って、あたしのほうが閉口しました。しかし、一度決めたことは絶対に守りとおしますからね、あの意志の強さは凄いものですよ」
(続きは、落語 昭和の名人 古今亭志ん朝(弐)でお楽しみ下さい)

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