いざ噺が始まると様子は一変する。馬生は登場人物に次々と乗り移るがごとくに変身をしてみせるのである
幻影を振り払って
――咲かせた自分だけの花
ゆっくりとしたテンポの心地よい語り口のなかに、誰もがわかりやすいくすぐり(ギャグ)が随所に交じる。天衣無縫をうたわれた父・五代目古今亭志ん生とは一線を画す、不思議な透明感のある江戸落語の世界を構築してみせたのが十代目金原亭馬生である。
弟の志ん朝(しんちょう)の落語がよりアップテンポで華やいだ色彩感をもつとするなら、馬生の語りの世界は、むしろ墨絵にも似た清澄さが持ち味。それでいて、その墨の濃淡のモノクロームの画面に、いきなり強烈な色彩を見たような感嘆を伴うのが馬生落語でもある。
門下の五街道雲助(ごかいどうくもすけ)師匠が言う。
「落語の登場人物に入り込む巧さにかけては、天才でした。通常は一応の型とか演出法があって、役に入り込む。でも、師匠は瞬時に役に入ってしまう。それも噺の主要人物だけではなく、たとえば『花見の仇討(はなみのあだうち)』なら、仇討ちの場面に行きあった野次馬にまで、入魂の芸が及ぶ。そこが凄いんですよ」
馬生は40歳にしてほとんど白髪だったうえに、好んで老けて見られるよう、ことさらに背を丸めて歩いた。そのせいも多分にあって、高座に上がるまでの馬生の印象はきわめて地味だ。ところが、いざ噺が始まると様子は一変する。馬生は登場人物に次々と乗り移るがごとくに変身をしてみせるのである。
最初の地味な印象と、一瞬の“憑依”を思わせるほどの凄みをもつ、入魂の芸との乖離の大きさは、驚嘆に値するほどだった。
持ちネタは優に300を超えていた。その目配りも幅広く、それこそ誰も演り手がいないような『村正(むらまさ)』など、ありとあらゆる噺にまで広く及んでいた。とりわけ独演会でじっくり聞かせる人情噺に定評があったが、むしろふだんの寄席でかける滑稽噺にこそ、馬生の本領は現われていたともいう。
「ばかばかしいことを高座で一生懸命、真面目に勤めるのが落語なんだよ」
馬生は雲助師匠にそう教えた。
「ふだんは江戸前の粋な雰囲気を身にまとった師匠ですが、噺の中では、いきなりとんでもなく面白可笑しい顔もするんですよ。たとえば閻魔大王が登場する『お血脈(けちみゃく)』は、わずかなお布施で誰もが天国に行けるようになってしまって、地獄は大不況という噺。その閻魔さまを演るときなどは、それこそ極端に漫画みたいな顔をつくってみせるんです」
その漫画的な豹変も馬生の魅力で、落語のファン層を広げたといわれる所以である。
家族を支えるため、ひたすら芸に精進
落語界入りは戦時下の昭和18年夏、15歳の折だ。当人は予科練に行って、お国のために身を捧げるつもりでいたが、鼻の手術をしたうえに、急性の盲腸炎であわや手遅れという事態に遭遇。ふた月もの入院を余儀なくされるという挫折感のなかで、父の勧めに従って噺家になった。ところが、前座修業もなしに噺を二つ三つ教わっただけで、いきなり二ツ目として高座に上がるハメに陥った。背景には、若手は兵隊にとられて二ツ目が足りないといった落語界の事情もあったらしい。
昭和20年春には父の志ん生が「存分に酒を呑みたい」という一心から、空襲下の日本を逃げ出して満州(中国東北部)の慰問興行に出かけ、それっきり行方知れずに。ろくに稽古をつけてもらえないまま、後ろ盾をなくした馬生への風当たりはがぜん強くなった。
「修業経験なしの苦労知らず」
そう陰口をいわれ、随分、つらい目をみたのである。この時期、母りんは「清(馬生)がきょうもいじめられた、悔しい」という趣旨の一文をしばしば日記に書きつけている。
「満州で死んだ」という噂も出ていた志ん生の帰国は昭和22年1月。それまでの間、馬生は各師匠のもとに稽古に通い、文献をあたり、独りすさまじい研鑽を積んだ。周囲を黙らせ、家族を支えるには、ひたすら芸に精進して、ぬきんでるしかなかったのである。
「親父は人の親としてはダメです。あのモノのない時代、一家をほうり出して満州に行かれて、残された者がどれだけ苦労したか」
後年、馬生は知人にそう語り、弟子のひとりにはこうも話している。
「オレは映画の寅さん(『男はつらいよ』松竹)の家族の気持ちがよくわかンだよ。本人はいいよ。好き勝手してんだから。けど、家族は大変なんだよ」
そんな馬生の孤独な闘いを知ってか知らずか、その原因をつくった当の志ん生の言いぐさは、まこと能天気なほどに明るい。
「あたしは、あれ(馬生)に噺を二つ三つしか教えませんでしたが、あとは自分でやったんですよ。あたしが満州へ行かなかったとしたら、そんなに伸びてはいなかったでしょう。思えばいい修業だったと思いますよ。これで、あたしの満州行きも無駄ではなかった」
馬生は父が世に残した数々の落語の音源を、あえて聴こうとはしなかった。ただし、これは志ん生の芸を拒絶してのことではない。10代のころからナマで聴いて感嘆した記憶のなかの「最盛期の艶やかな志ん生落語」を、より大事に守りたかったからだという。
馬生落語の開眼に向けた生きざまは、よくも悪くも愛憎相半ばする父・志ん生への、複雑な想いを梃子にしたものだったのである。
馬生は徹底した努力の人だった。演目ひとつを覚えるにしても、噺の時代背景から町の地理、出てくる道具の果てまで仔細に文献をあたり、納得いくまで調べ上げた。家の書斎は、そのための専門書で埋まっていた。
馬生の長女、女優の池波志乃(いけなみしの)さんが言う。
「日本の歴史や世界の歴史は全巻揃っていたし、風俗事典とか、もうありとあらゆるジャンルの本がありました。晩年、目が弱ってきて、“ここを読んでくれないか”と本を渡されたので見たら、ぜんぶ漢文で。私には全然わからない。ふだん、こんなに難しい本を読んでいたのかと驚きました」
踊りやお茶など落語の芸に必要で、習わなければ身につかないものは、正式に師について学んだ。昭和28年に結婚した治子(はるこ)夫人とは、その踊りの稽古場で出会ったという。
「筆字は自己努力です。何十年も筆で日記をつけていて、初期のころはあまり上手じゃない。でもそれが、楷書から少し崩した行書、さらに草書まで、だんだん上手に書けるようになっていったのがわかるんですよ。それがなんであれ、まず基礎を正しく習得して、そのうえで崩す。たぶん、それがお父さんの生き方全部に通じる性格なんだと思います」
絵も同様だ。馬生は独演会を催す際に渡すプログラムを、客の人数分、手作りで用意した。そこにはみずから絵筆をとって描いた、シンプルで気の利いた画も添えられていた。
「結局、絵はデッサン力が大事ですから、昔は時間があると、子供だった私を連れてよく上野動物園に写生に行ってました。そこで虎などを描きはじめると、その檻の前からもう動かない。鉛筆1本で、それこそ写真のようにすごく緻密な絵を描いていたんです」
何よりも馬生はよき家庭人だった。その点は、家族を顧みずに遊蕩三昧に明け暮れた志ん生とはまったく対照的だ。
「おじいちゃん(志ん生)のような生き方が嫌で、反面教師にしていたのでしょうね。怒鳴ったり、手を上げたりも絶対にしない。なんでも話し合う人でした。子供でも誰でも、何かあると話をきっちり聞いてくれて、朝まででも話し合うんです。それに、ふだんからいろいろなことを教えてくれる人でした」
洋食の食べ方ひとつにしても、志乃さんは子供の時分に家で父から教わった。
「まだ貧しい時代で、お肉といってもいちばん安い鯨の南蛮漬けを焼いて食べるだけですけど、うちは必ずナイフとフォークなんですよ。いい加減に持ち替えて食べたりすると“それは違うだろ”と注意をされる。育ちの良し悪しは、おカネのあるなしではなくて、そうしたことがきちんと身についているかどうかが大切だ、付け焼き刃ではいけないよって」
娘たちが小学校を終えるころになると、馬生は“ホンモノの味”を教えにレストランにも連れて行ってくれた。志乃さんには日比谷のレストランで初めて食べた「この世のものとは思えないほど美味しかったエビフライ」の記憶が、今も鮮明に残っているという。
(続きは、落語 昭和の名人 金原亭馬生(壱)でお楽しみ下さい)
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