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金馬が相手にしたのは評論家でも落語通でもなく、無心に落語を楽しむ大衆や子供たちだった。金馬は笑いの福音を庶民に届けたのだ。

2718404109_2 レコード、ラジオで全国区に
――落語の伝道者

 年配の落語好きには、「子供のころ、金馬を聴いて落語の魅力を知った」という人が多い。戦前から戦中、戦後を通じ、もっとも売れに売れた噺家が金馬である。
 それも、東京の落語通や評論家に評価されるのでなく、レコードやラジオといった新時代のメディアを通じて大衆に支持される形で、金馬の落語は全国津々浦々に知れ渡っていた。

 昭和10年、石川県生まれの演芸評論家・保田武宏さんは言う。
「戦後、NHKラジオの落語を欠かさず聴いていましたが、子供心にいちばん面白かったのが金馬です。言葉がはっきりしていて、人物の描き分けが鮮明。侍の声は武張った感じで、小僧の声は子供らしく、誰にでもわかるようにしゃべり方を変える。だからこちらの頭に、絵がぱっと浮かぶのです」
 その特徴は、残された録音を聴いてもよくわかる。使うのは江戸弁というより、明快な東京弁。登場人物ごとに声音も変えている。
 粋と洗練を重んじる江戸落語の伝統からすれば、声で人物を描き分けるのは“くさい”ということになる。事実、一部の評論家からは、桂文楽(かつらぶんらく)らに比して一段低く見なされた。しかし、金馬が相手にしたのは評論家でも落語通でもなく、無心に落語を楽しむ大衆や子供たちだった。太平洋戦争をはさんだ不穏な時代にあって、金馬は笑いの福音を庶民に届けたのだ。

一席でも多く高座に上がりたい

「子供に受けたのは、テンポのよさ。『居酒屋』の小僧の言い立てや『孝行糖』の飴売りの文句、『金明竹(きんめいちく)』の道具七品の口上、『高田馬場(たかたのばば)』に出てくる蝦蟇の油売りの啖呵、どれも面白くて耳に残る。当時の子供はラジオを聴いて、『居酒屋』や『孝行糖』の言い立てを自然と諳んじていたはずですよ」(保田さん)
 ふつうの噺家ならさらりと言う相づちの「そうそう」も、金馬にかかると「そぉーそ」と独特のリズムを含み、心が浮き立つような楽しさがあったという。
 加藤専太郎、のちの三代目三遊亭金馬は明治27年(1894)、東京・本所(ほんじょ)に生まれた。実家は洋傘の製造業。尋常小学校を修了した11歳のころ、経師屋を営む伯父のところへ奉公に出されている。
 大正元年(1912)、18歳のころ、経師屋で働きながら講釈師の揚名舎桃李(ようめいしゃとうり)に弟子入りし、講釈の修業を始めた。ただし、この時期の講釈界の記録に金馬とおぼしき人物の名前はない。このときの入門はプロとしてのものではなく、桃李が主宰する講釈塾のようなものに通っていたのではないかと思われる。
 ところが、金馬が講釈を演ると、真面目な話なのに客が笑ってしまう。おまえは噺家に向いている、と転向を勧められ、翌大正2年に初代三遊亭圓歌(えんか)に弟子入り。三遊亭歌当(かとう)の名前を貰った。
 当時、一緒に前座として寄席を勤めていたのが、のちの八代目林家正蔵(はやしやしょうぞう)(彦六(ひころく))である。正蔵によれば当時の金馬は、高座に上がっている芸人を、次の芸人が楽屋入りする前に下ろしてしまうことがよくあったという。具体的には、高座の噺家が脱いだ羽織を、さっさと舞台袖に引っ込めてしまうのだ。
 当時の寄席では、羽織を袖に引っ込めるのが、次の出演準備ができたという合図だった。当然、高座の噺家は噺を切り上げて下りてくる。ところが、次の芸人は来ていない……。そこで金馬が“つなぎ”として高座に上がり、一席伺うのである。一度でも多く高座に上がるチャンスを作っていたわけだが、このとき、金馬19歳。得意にしていた落語『真田小僧(さなだこぞう)』に出てくる子供のように、頓知が利いてバイタリティにあふれた姿が目に浮かぶ。
「師匠の得意ネタはかえって演りにくい。これは弟子の皆が感じていたことです。不思議なことに、亡くなって時間が経てば経つほど、師匠の存在が大きくなってくるのです」
 これは当代、四代目の金馬師匠の言葉である。四代目は昭和16年に先代に入門。弟子として20数年間を過ごし、師匠没後に四代目を襲名した。しかし、三代目が世を去って半世紀近くを経た今も、落語ファンの耳にはあの金馬節が鮮明に残っているという。
「とくに『居酒屋』は、師匠が繰り返し演じていた十八番中の十八番。お客さんの頭の中にも、いまだに三代目のイメージがくっきり残っていましてね」
 金馬の噺の中でも、『居酒屋』の浸透ぶりは別格といっていいだろう。その発端は昭和4年、金馬34歳のときにさかのぼる。大阪で義太夫(ぎだゆう)や演芸もののレコードを発売していた日東蓄音器(ニットーレコード)から、落語をレコード化しないかという誘いがきた。
 当時のレコードは収録時間の短いSP盤。片面約3分、両面でも6分ほどしか収録できない。6分間でお客を喜ばせる工夫はないものか――知恵を絞った金馬はひとつのアイデアを思いつく。古典落語『ずっこけ』の前半を独立させて6分に構成する。さらに別の噺の一節を拝借して、一席作ろう――。
 こうして世に出たのが、金馬の『居酒屋』だ。先行作品を下敷きにはしているが、もとの噺の共感しにくい部分を割愛し、誰にでも楽しく聴ける噺に仕立てた。全体の構成、ギャグの運びは金馬の独創であるといってよい。
 SPレコードの『居酒屋』は大ヒットし、金馬の名を一躍広めることになった。金馬はニットーレコードと専属契約を結び、昭和10年までに71枚のレコードを出している。
「金馬という人は噺の編集力、構成力にとても優れていたのだと思います。その証拠に、6分のSPレコードを聴いても窮屈な感じがせず、十分に面白い。同じ噺を、ライブでは2倍、3倍の長さで演じていますが、どちらもストーリーは同じなんです。これは特異な才能といっていいでしょう」(保田さん)
 この才能はもちろん、ラジオ放送にも生かされることになる。昭和30年代まで、ラジオ番組はほとんどが生放送。あとで編集して時間を調整する、というわけにはいかない。金馬の弟子のひとり、桂南喬(かつらなんきょう)師匠はこう語る。
「当時、寄席の中継番組で複数の芸人が出るときは、師匠はたいていトリでした。残り時間を逆算して噺を演じるのが得意だったからです。前の出演者がたっぷり演って、自分の持ち時間が10分になっても、その尺で噺をぴたりと収める。逆に、持ち時間が延びた場合でも、噺を自然に延ばして収めてしまう。番組にとって、こんな重宝な噺家はいません。もちろん、家で時計片手に稽古を重ねているからできる芸当ですが、お客にはそんな気配を、微塵も感じさせませんでした」
(続きは、落語 昭和の名人 三遊亭金馬(壱)でお楽しみ下さい)

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