「柳好さんは、楽屋で聴いていてもちっとも上手いとは思わない」 決して主流、正統の芸ではなかったが、寄席の客を喜ばせることでは、第一人者だったといってよいだろう。
「柳好さんは、楽屋で聴いていてもちっとも上手いとは思わない。しかしあの明るさは、私にはとても真似ができない」
昭和の落語界を代表する名人・八代目桂文楽(かつらぶんらく)をしてこう言わしめた噺家こそ、三代目の春風亭柳好である。決して主流、正統の芸ではなかったが、寄席の客を喜ばせることでは、第一人者だったといってよいだろう。
『野ざらし』を聴けばわかるが、三代目柳好の特徴は、「謡い調子」と呼ばれる、独特の節がついていることだ。そのリズム、メロディと、生来の明るみを巧みにマッチさせることで、独特の効果が生まれた。客は、心地よい音楽に身をゆだねるようにして、柳好の高座を楽しんだ。きめ細かい情景描写や心理描写をしないため、生前はあまり評価されず、とくに落語通や評論家からは、むしろ貶められることさえあったが、現在、このタイプの噺家が見当たらないことからしても、貴重な存在といえるだろう。
四代目志ん生から受け継いだリズム
俗に三代目といわれるが、実際の代数は異なるようだ。噺家の系図や代々の調査の権威で、本誌の寄席文字も執筆する橘左近(たちばなさこん)師匠によれば、ここで取り上げるふたりの柳好は、五代目と六代目が正しいという。柳好の初代は江戸時代の人で、のちに初代麗々亭柳橋(れいれいていりゅうきょう)になった。二代目は初代の門人。三代目はのちに七代目入船亭扇橋(いりふねていせんきょう)を襲名している。四代目は、四代目麗々亭柳橋の弟子。そして五代目が通称三代目と続く。
「謡い調子」の柳橋が三代目を自称したのは、二代目と四代目を勘定入れなかったから。故意に入れなかったのか、存在を知らなかったのかは、今となってはわからない。混乱を避けるため、ここでは通称の三代目で通す。
三代目は、その独特の「謡い調子」を、どうやって作り上げたのだろうか。じつは、師匠である二代目談洲楼燕枝(だんしゅうろうえんし)も、四代目春風亭柳枝(りゅうし)も、謡い調子ではなかった。
昭和14年8月22日付けの『都新聞』(『東京新聞』の前身)に、落語家の座談会が載っている。毎日の連載でこの日が13回目。出席者は柳家金語楼(やなぎやきんごろう)、八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)、七代目春風亭柳枝、そして三代目春風亭柳好の5人。当時の売れっ子ばかりである。この日のテーマは、「好きな落語家」。このなかで三代目は、次のように語っている。
柳好「私ゃあんた(志ん生)の師匠の先代志ん生さんが、何ともいえないほど好きだ」
文楽「大体あんたの芸は、先代志ん生のイキだよ」
柳好「好きなだけに、知らず知らずにまねるんでしょう」
文楽から先代志ん生と呼吸が同じであると指摘された柳好。ここに出てくる先代の志ん生とは、明治から大正期に活躍した噺家で、本名をとって“鶴本の志ん生”と呼ばれる。この四代目志ん生が、粋で江戸前で、謡い調子であった。その芸に惚れたために、知らず知らず似てしまったということらしい。
ともかく、この謡い調子を生かした噺が、『がまの油』と『野ざらし』である。『がまの油』には、大道の薬売りが見物を集め、がまの油の口上を言い立てる見せ場がある。
「さァさァお立会い、御用と急ぎのない方は、ゆっくり聞いておいで……」
ふつうの噺家なら一気呵成にたたみかけるこの口上も、柳好にかかれば自律的なリズムとメロディをもち、見事な音楽となった。
この2席があまりに知られていたため、柳好が高座に上がると客席から「がまッ」「野ざらしッ」と声がかかる。あちらを立てばこちらが立たず。こうなると、どちらかひとつを演る、というわけにはいかない。そういうときは、客に断って、『棒鱈(ぼうだら)』『ずっこけ』など、酔っぱらいの噺を演った。
酔っ払いの芸も四代目志ん生譲り。『青菜(あおな)』では、主人公の熊が旦那の家でべろべろに酔うという、ほかの演者にはあまり見られない演出をしている。本人は、客が期待する謡い調子の噺より、酔っ払いの噺のほうが好きだったのでは――そんな見方もできる。
柳好は若くして寄席の人気者となり、大正末、30歳代半ばにして、落語睦会の若手四天王のひとりに数えられた。落語睦会は、明治時代の柳派(柳家、柳亭(りゅうてい)、春風亭など、亭号や名前に柳の字が付く派で、三遊(さんゆう)派と拮抗する二大勢力)のうち、小さん(こさん)一門を除く連中が中心の集まりで、当時は若手を売り出して勢力を伸ばしていた。四天王のほかの3人は、六代目春風亭柳橋、八代目桂文楽、初代桂小文治(こぶんじ)。いずれも後年、名をなしている。
しかし、四天王と呼ばれても、それは落語睦会の中、寄席の世界の中だけのこと。昭和になると世界恐慌をきっかけに、長く厳しい不況がやってくる。楽に暮したのは、ごく一部の限られた人だけ。残りの人は喰うのに必死だった。のちの五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生(えんしょう)のように、さっぱり売れなかった人はもちろん、三代目柳好も、副業に励まなければ食べていけなかった。
昭和16年9月1日、東京は浅草の東本願寺で、漫才師・花園愛子(はなぞのあいこ)の葬儀が行なわれ、約300人が会葬した。同年7月22日、中国で戦う軍の慰問に出かけ、トラックで移動中に敵の銃弾が当たったのだ。36歳の若さだった。
三代目は涙をこらえていたが、ついに感きわまって泣き出してしまう。花園愛子は夫・桂金吾(かつらきんご)とコンビを組み、三代目の弟子だった。落語家の弟子に漫才師とは不思議だが、三代目は不況のころ、よく旅に出ていて、満才も落語もできる重宝な存在として弟子にしたのだという。三代目が泣いたのは、不幸にも戦死したという理由だけでなく、自分が売れなかった時代を思い出したからでもあった。
昭和の初め、喰えない三代目は、副業におでん屋をやっていた。材料を買い出しに行く師匠の姿を見た桂金吾は、「そんなことをしては師匠の人気にさわります。店は私にまかせてください」と、営業を一手に引き受けた。同じころ、三代目にかわって質屋に通ってくれたのが、金吾の妻の愛子だった。
おでん屋もうまくいかず、寄席は相変わらず不況の昭和7年6月、柳好は桂金吾ら弟子に暇を出し、寄席にぷっつりと出なくなる。幇間に転向したのだ。どこで何という名前でやっていたのかは、よくわからない。しかし、不況では幇間も成り立つはずがない。翌8年10月、落語睦会に復帰して下席の寄席に出た。ところが出演は端席だけ。上野の鈴本、人形町末広といった有名どころからははずされた。これに憤慨したのか、11月からまた寄席に出なくなり、ついに落語睦会を退会する。
そして翌9年3月、六代目春風亭柳橋が会長を務める日本芸術協会(のちの落語芸術協会)に加入し、3月下席の神楽坂演芸場、新宿末広亭、麻布十番倶楽部に出演した。人気の柳好を失った落語睦会は不振が続き、昭和12年に解散。一方の日本芸術協会は、落語協会と肩を並べるまでに発展してゆく。
(続きは、落語 昭和の名人 春風亭柳好でお楽しみください)
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