時代に少しもおもねることなく、伝統の型を頑なに守り、次世代に伝えようとしたのが八代目林家正蔵である
終生の長屋暮らし
――謹厳実直の噺家
時代の風をつかんで、古くからある噺を現代風にアレンジしてみせることは、噺家にとってひとつの醍醐味には違いあるまい。にもかかわらず、時代に少しもおもねることなく、伝統の型を頑なに守り、次世代に伝えようとしたのが八代目林家正蔵である。
それゆえ派手な人気とは無縁だったが、落語通の評価は高かった。五代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)は、次男・志ん朝(しんちょう)が噺家になるとき、真っ先に正蔵のもとへ通わせている。江戸落語の確固とした型を、正蔵に見いだしていたのだろう。
なかでも正蔵が熱心に取り組んだのが、三遊亭圓朝の噺を忠実に受け継ぐことである。六代目圓生(えんしょう)も圓朝作品を得意とし、ふたりは終生のライバルであったが、正蔵は自分こそが正統だと、強く自負していた。
三遊亭圓朝(1839~1900)は、近代落語の祖といわれ、幕末から明治中期にかけて他を圧倒する光芒を放った名人である。創作にも優れ、『芝浜(しばはま)』や『文七元結(ぶんしちもつとい)』、長編怪談噺の『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』『怪談牡丹燈籠(かいだんぼたんどうろう)』など、数々の名作を残した。正蔵が圓朝への思いを強めていったのは、三遊亭一朝(いっちょう)(1847または48~1930)との出会いが大きい。
一朝は圓朝の直弟子で、大正に入ると大名人直伝の芸を伝える最後の噺家となった。弟子を取らず、請われれば稽古をつけるというご意見番のような存在。じつは正蔵より、圓生のほうが早く一朝を訪ねている。ただ幸いだったのは、正蔵が訪ねたとき、ちょうど一朝が時間を持てあましていたことだ。一朝は、正蔵への稽古に存分に時間を割いてくれた。
正蔵はもともと、噺家を強く志したのではない。浅草育ちで、噺家や役者が身近にいて、彼らとつるんでいるうち、二代目三遊亭三福(さんぷく)に弟子入りすることになったのである。
「名人上手になろうと思って噺家になったんじゃアない。でも、なった以上はどうにかならなくちゃと、つねづね思っていましたよ」
正蔵は晩年、よく弟子たちにこう語っていたという。どうにかなるための第一歩、それが圓朝の噺を習うことだった。噺家になって3年目の大正3年、19歳のときである。
お辞儀に込めた3つの意味
正蔵は3歳で、実父と生き別れている。いっぽう、一朝にもこれといった身寄りはなかったようだ。そんなふたりは自然、実の親子のような関係になっていった。当時、一朝は二代目三遊亭圓楽(えんらく)を名のっていたが、出会いから5年後の大正8年、圓楽の名を正蔵に譲る。そして最晩年は正蔵の長屋に身を寄せ、昭和5年にそこで息を引き取った。こうした一朝との長いつき合いもあって正蔵は、圓朝噺の正統な継承者としての自負をもつようになったのだろう。
世話になった一朝の死に水を取ったことでもわかるように、正蔵は義理堅く、律儀な人柄だった。高座でのお辞儀がとても丁寧で、弟子たちにも同じようにしなさいと、口を酸っぱくして言っていたという。正蔵の最後の弟子、林家正雀(しょうじゃく)師匠は、そのお辞儀の意味を語る正蔵の言葉が忘れられないという。
「ひとつはお客様に対して、もうひとつはこれから自分が演じる噺に対して、そして最後はその噺を伝えてきた代々の名人上手に対して、お辞儀をするんだよ」
寄席の楽屋入りが早いことでも有名だった。時計を身の回りから離したことはなく、遅刻などありえなかった。「駆け上がりじゃ、いい芸はできねェ」が口癖で、前の出番の噺家がかける噺を順に聴き、客席の様子をじっと伺ってから高座に上がった。小屋側にもつねに気を配り、時間が押してくるとみずから進んで噺を短縮した。刈り込みが上手く、どこをどう短縮したのかわからなかったという。
そんな義理堅さは、生来の頑固で短気な性分と重なり、時に周囲の者たちの手を焼かせた。筋の通らないことに出くわすと、かっと頭に血を上らせ、手がつけられなくなった。
戦前、世話になっていた吉原の幇間が会を催すことになり、正蔵は進んで応援に駆け付けた。会は盛況のうちに幕引きとなり、出演者だけで打ち上げ。ところが、手配したはずの弁当が、待てど暮らせど届かない。ようやく届いたのは皆が引き揚げた後で、残った幇間と正蔵の前に、弁当の山が築かれた。
弁当の段取りをしたのは、幇間の弟子である。「師匠の顔に泥を塗るとは許せねェ」。怒った正蔵、べろべろに酔っていたが、弟子を追いかけて吉原へ。途中の寿司屋で調達した椅子を振り上げて威勢よく殴り込んだ。ところが、乗り込んだ先は赤の他人の家。翌日、正蔵は最中を手土産に詫びを入れている。
こんな話は数知れず、いつしか“とんがり”のあだ名が付いた。かっとなると押しても引いても倒れない、鋭い尖塔になぞらえたものだが、怒りの基準は本人独自のもので、家族や弟子にも予想できなかったという。弟子のしくじりにも厳しく、怒ると「破門だ」と大声を上げた。それでも丁重に詫びれば、すぐ帳消しにしてくれる。その伝で37回も破門を言い渡された猛者が、『笑点』でお馴染の林家木久扇(きくおう)師匠である。
正蔵は、文化8年(1811)に端を発する落語界きっての大名跡だが、その襲名には紆余曲折があった。昭和25年、のちの正蔵こと蝶花楼馬楽(ちょうかろうばらく)は、九代目柳家小三治(こさんじ)(のちの五代目小さん)と小さんの名跡を激しく争い、敗れてしまう。20歳も下の弟弟子に先を越されて、引き下がってはいられない。周囲の勧めもあって、七代目が死去したばかりで空いていた正蔵の名跡を、一代限りの約束で借り受けたのだ。義理堅い正蔵は、七代目の家へ誓書まで入れている。
55歳で八代目を継いでから、正蔵は弟子を取るようになった。弟子はみな通いである。正蔵の家には、弟子が寝泊まりするようなゆとりはない。昭和12年、下谷稲荷町の四軒長屋に落ち着いて以来、亡くなる前年までそこに暮らしたのだ。“稲荷町の師匠”“長屋の師匠”と呼ばれた所以である。
長屋は、昭和50年代で店賃は1万円ほど。1階が2畳と6畳に台所、手洗い。2階には6畳と3畳の和室があった。戦後はマキ夫人とふたり暮らし。正雀師匠が当時を懐かしむ。
「鴨居に“小心居”と彫った額が掲げてある。これは“三代目柳家小さんの心で居る”という意味。うちの師匠は三代目小さんの預かり弟子だった時代があって、その人柄に心酔したんです。三代目小さんは、若手の落語会に呼ばれると、楽屋に入るなり“いくら足りないんだい”と小屋代を心配する人だったそうですよ。うちの師匠も、お金の面では後進に気を配っていました。だから生涯、お金が身につかなかったのでしょう」
正蔵の暮らしは極めて質素。雨が降ろうが、雪が降ろうが、タクシーなど乗らない。寄席へは地下鉄で通い、浅草・新宿間の定期券を持っていた。銀座線と丸ノ内線で、稲荷町からほとんどの寄席に行くことができたという。ところが、定期券を使うのは寄席を勤めるときだけ。ほかの落語会や私用のときは、定期券の圏内でもわざわざ切符を買った。
「定期券は、寄席へ通うために安くしてもらっているんだ。だから、ほかのことで使っちゃアいけねェんだ」
筋の通っているような、いないような独特の理屈が、頑固で律儀な正蔵らしい。
(続きは、落語 昭和の名人 林家正蔵(彦六)(壱)でお楽しみ下さい)
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