志ん生が高座に上がると、それだけであたりの雰囲気がぱあ~っと明るくなる。まるで照明を強くしたように、場の空気が変わるんですよ
八方破れで遊蕩三昧の生きざまのなかに培われた、天衣無縫にして自由奔放な芸で、客席をかき回しては抱腹絶倒の渦に巻き込む。五代目古今亭志ん生は、存在そのものが一個の芸といっていい、特異な噺家だった。
志ん生門下の古今亭圓菊(えんぎく)師匠が言う。
「志ん生が高座に上がると、それだけであたりの雰囲気がぱあ~っと明るくなる。志ん生ならではのことで、まるで照明を強くしたように、場の空気が変わるんですよ」
志ん生落語は、あくまで「客を愉しませて帰すこと」を第一にしていた。それも「まくらから笑わせる」というのが信条だった。
圓菊師匠も志ん生からはこう教わった。
「難しい人情噺でも笑えるとこをつくれよ」
また、志ん生はこうも言った。
「落語は大衆芸能だよ。誰ンでもわかるように演れ。それには昔の言葉ばっかり使ってちゃダメだ。いまの言葉で語るんだよ」
実際、重たい内容の人情噺でも、志ん生はまるで世間話でもするように、平易な言葉でごく軽く語りはじめる。演じるうちに着物の前がはだけても一向に気にせず、笑いのうちに客の感涙を誘ってみせる。この種の芸当は、余人にはまず真似のできないものだった。
もっとも、若い時分の志ん生の落語は後年の派手で奔放な芸とは縁遠い、むしろ“真四角”といっていいくらいに地味なものだったらしい。それが大きく変わってゆくのは、40歳の声を聞くころからだった。
志ん生は、落語の芸の真髄は“妙”にあるという。その妙を体得するには、噺の基本が身についてからの絶え間ない努力が肝要で、しかも、演じるときは「欲得抜き」でなければ本当の可笑しみは出せないと語っている。
他人の噺を聴いて「オレより下手」と思うときは、じつは自分と同じくらいの芸。「同じくらいかな」と思うときは、絶対に向こうが上で、「こいつは上手い」と感心するときは相手の芸が格段に上だ。それが自身の芸のうぬぼれを諫める志ん生の流儀でもある。
志ん生人気が沸騰するのは戦後になってからだが、その芸は早くから落語通の間で高く評価されていた。たとえば戦時下の昼間の独演会でのこと。この日、志ん生が選んだ演目は『怪談牡丹燈籠(かいだんぼたんどうろう)』。途中、外では空襲警報の演習が始まる。しかし、志ん生の名人噺に引き込まれた客は、警報が鳴っても誰ひとり振り向く者はいなかった。
それほどの名人芸をもちながら、気が乗らないと、あっさり高座をすっぽかすこともした。当然、先方から抗議の電話が入る。そんなときの志ん生の言いぐさがふるっている。
「しようがねえじゃねェか。本人が“行きたくねえ”ッてンだから」
これからは酒に酔った口調でいこう
志ん生の人生には酒がつきものだ。いつも少し酔っぱらって高座を勤める。そんなイメージが世間に流布してもいるが、長女の美濃部美津子(みのべみつこ)さんによれば、「高座の直前に呑むようなことはまずなかった」という。
これについては圓菊師匠も同意見だ。
「あえて酔っている口調で噺をする。それは私が弟子入りした昭和28年、師匠が63歳の時分に“これからは酒に酔った口調でいこう”と、そう決めた芸だったと思います。戦前はともかく、私が知るかぎり、師匠が本当にヘベレケに酔って高座に上がったことは、一度あったか、どうかです」
だとしたら、その戦後の一度は昭和33年5月30日の東横落語会に違いない。この日の高座は柳家小さん(やなぎやこさん)・古今亭志ん生・桂三木助(かつらみきすけ)・桂文楽(ぶんらく)の順。ところが、小さんが噺を終えても、志ん生がまだ来ない。小さんが時間をつなぎ、三木助にバトンタッチをした。休憩をはさんで、場内に「きょうは志ん生はもう来ないよ」の声がささやかれだしたころ、ようやく現われた志ん生は、体がぐらぐら揺れて満足にお辞儀もできないほどの酩酊状態だった。その口から出た第一声はこうだ。
「えー、ちょいと事故がありましてナ」
悪びれるふうもなく言い、志ん生がニタリと笑えば、場内はもう大爆笑。いざ噺が始まっても、しゃべっている当人が制御不能とあって、結局は収拾がつかないまま半端で楽屋に引き揚げた。しかし、そんな志ん生の背に贈られた拍手が、この日最大のものだった。
〈どうして生きてきたンだか、自分でもよくわからない。こりゃあ、ひょっとすると、かかァのおかげだよ。かかァがいなかったら、とうの昔に日干しになっていたに違いない〉
志ん生は自著『びんぼう自慢』(筑摩書房)でそう語っているが、りん夫人は典型的な明治の女性。志ん生の手前勝手な呑む・打つ・買うの三道楽が招いた貧乏生活に文句ひとついわず、辛抱強く耐えて4人の子供たちを育て上げた。志ん生が売れてからは、りん夫人は自分の贅沢はさておいて、なんでも気前よく周囲にポンと買い与える、いかにも江戸っ子の妻らしい生き方を通した。
落語家になってまもない次男・古今亭志ん朝(しんちょう)の自慢の愛車はイタリア製のアルファロメオ。当時、日本に2台しか輸入されていなかった超高級車で、値段は210万円。いまの金額で軽く2000万円を超える買い物だったが、25歳の倅の願いを聞き入れ、それだけの現金を金庫から無造作に取り出して、「じゃあ、これで買いな」と手渡したのが母のりんである。志ん朝は、それだけの大金がわが家にあって、母親が気前よく渡してくれたことに、むしろ驚愕したほどだった。
一度、志ん生がりんを伴って熱海に出かけたことがあった。長年の苦労に報いる女房孝行の旅である。ところが、いざ熱海の宿に着いたはいいが、何もやることがない志ん生はどうにも落ち着かない。部屋のなかを、やたらうろうろ歩き回った挙句に「おい、やっぱり帰ろう」。夕飯も食べずに宿を出て、東京へまっしぐら。さすがにすまないと思ったのか、上野で映画を一緒に観ることで、志ん生の一度きりの女房孝行は終わった。
家にいるときの志ん生は機嫌がよければ洒落を言ったりもするが、わりに仏頂面でいることが多かった。朝は起きると“お天道さま”にパンパンと手を合わせる。信心深さの現われかと思えば、案外そうでもないらしい。
「お盆のときは、お坊さんがお経をあげにやってくるでしょう。仏壇の横のテレビがついたままなので消そうとすると“おい、消しちゃダメだ”って。ドラマを見ながら、“あ、あいつはられちゃうよ、ほうら、殺られたァ”ってな調子なんですよ」(圓菊師匠)
志ん生は大変な凝り性だ。ひとたび興味をもてば何にでも凝った。とくに古道具の類が好きで、煙草入れなどは多いときは20以上も持っていた。ただし、飽きるのも早い。たいていは数日で飽きて、買った値段よりも安く道具屋に売り払ってしまうのである。一時は小鳥にも凝ったが、セキセイインコ、カナリヤ、ウグイスなど次々と飼ってはすぐ飽きて手放した。犬も数日単位で取り替えた。
いちばんの趣味は将棋。「落語界に将棋を広めた」と自負、家の玄関には俎板でつくった「マッタクラブ」の看板も掛けていた。この将棋愛好会の名は、1回待ったをしたら罰金を徴収するという意味で、会員は20人ほど。仲間と地方の宿に泊まれば、決まって将棋の盤を囲んだ。温泉宿でも湯には入らず、続けて50局もの将棋三昧。対戦相手が疲労から「駒が二重に見える」と泣きを入れても承知せずに「もう1局!」という具合だった。将棋だけは飽き性とも無縁だったようだ。
「世の中を渡るのは将棋を指すのと同じですよ。逃げ、逃げ、逃げ、逃げして、結局、勝たなくちゃあ仕方がないンだから」
(続きは、落語 昭和の名人 古今亭志ん生(弐)でお楽しみ下さい)
「落語」カテゴリの記事
- 新装第2回「人形町らくだ亭」は6月23日開催です(2010.06.11)
- 落語の世界を描くコミック、『どうらく息子』(尾瀬あきら)の連載がスタート(2010.06.08)
- 江戸学の旗手・田中優子さん初の「落語論」、小学館101新書より発刊(2010.06.03)
- 「人形町らくだ亭」半年ぶりの再開、おかげさまで大盛況でした!(2010.05.19)
- 落語の楽しみ(2010.04.22)



































コメント