ホーム >  > ふたつのループ線と一機のゼロ戦

前の記事

次の記事

2009年12月26日 はてなブックマーク - ふたつのループ線と一機のゼロ戦このエントリーを含むはてなブックマーク Twitterにつぶやく

ふたつのループ線と一機のゼロ戦

00  JR九州・肥薩線の旅は人吉からがクライマックスの峠越えとなる。以前、地形図評論家の今尾恵介さんが「だいたい県境ってどこも寂しいんですよね」と話していたが、熊本側の人吉から鹿児島県側の吉松までは“矢岳越え”と呼ばれる県境の峠区間が控えているのだ。しかも、この間にはちょっとだけ宮崎県も通過するから、熊本・宮崎・鹿児島という寂しさも三倍の県境なのである。

   そんな峠区間にもかかわらず肥薩線は明治42年(1909)に難航時の末に開通させている。当時、幹線となる鉄道は「敵艦に攻撃されるから内陸を通すべし」という軍部の要請でこの難儀な峠を越えることになったのだ。
 ともあれ人吉~吉松間35キロ㍍、標高差430・3㍍の難所が100年前に開通したのだ。
 人吉から乗った吉松行きの列車は「いさぶろう・しんぺい」号というキハ40をおしゃれに改造した観光列車だ。
 ちなみに「いさぶろう」とは肥薩線開業当時の逓信大臣、山縣伊三郎で「しんぺい」は時の鉄道院総裁、後藤新平の名からとったもの。この二人の揮毫した扁額が峠のトンネルの両側に掲げられていることからこのネーミングになったのだ。

01

 列車は人吉を出ると最大30.3パーミルの急勾配を登り始める。鉄道ファンの間では特に有名な大畑ループはすぐにやってくる。坂を上りきったところが標高294.1㍍の山脈の鞍部で、ひとまずここに大畑(おこば)駅を置いた。
 列車は一休み後に逆方向にスイッチバックで発進し、さらにもう一回スイッチバックしてループ線に入った。スイッチバックとループ線という峠越えの奥の手が一緒にあって、しかもその中に駅があるという大畑ループ。こんなところは日本広し、といえどもここにしかない。
 いまならどかんと長大トンネルでぶち抜くところだが、明治時代はなにかと苦労したのだ。もっとも苦労したのは開通後も同じで、昭和40年代まで蒸気機関車は急勾配対策で石炭と重油を併焚するため機関紙はガスマスクを着用して運転していたという。
標高536.9㍍の肥薩線で最も標高が高い矢岳駅にある『人吉市SL展示館』にはかつて肥薩線を走ったD51とともにそのガスマスクも展示されている。機関士も苦労したが乗客も大変だった。急勾配のトンネルなど猛烈な機関車のばい煙が客車を襲い、ススだらけの乗客は停車駅の洗面所に殺到した。矢岳駅のホームの端には、かつてホームに設けられていた手水鉢が打ち捨てられていた。当時の矢岳越えは一大スペクタクルだったのである。
 そんな、鉄道旅の古戦場を「いさぶろう・しんぺい」号は空調の聞いた車内で、かわいいアテンダントさんのサービスを受けながら走る。

0203

0406_2

05 07

 矢岳~真幸間では「日本三大車窓風景をお楽しみください」と列車が徐行する。正面には霧島連山、そのふもとの加久藤盆地の先には遠く桜島までのパノラマが展開する。
 思うに、この路線はよくぞ残ったものだと思う。新八代~鹿児島間が新幹線で約40分で結ばれたとき、人吉~吉松間は1時間もかかるのだから。
 次の真幸(まさき)駅は宮崎県内、あの東国原知事の看板が駅に立っていた。ここもスイッチバックの駅で、これより一気に鹿児島県内の吉松駅に下る。
 肥薩線の旅はここで終わるが、肥後、薩摩国境にはも“うひとつの肥薩線”があったのはご存知だろうか。昭和63年(1988)に廃止された国鉄山野線で、肥薩線の栗野駅と鹿児島本線水俣駅を結ぶ峠越えのローカル線だった。今回は旅のオマケにレンタカーを飛ばしてその核心部分を訪ねてみた。
 この路線は鹿児島県の北部、薩摩布計(さつまふけ)駅から鹿児島・熊本の県境の峠に入っていく。
 ちなみに薩摩布計にはかつて大規模な鉱山があり、ちょっとした鉱山町がそのまま残っている。こんな場所は廃線跡探訪をしているとテンションがあがるところで、今回もトンデモないものを発見してしまった。それは「ゼロ戦」だった。
 旧布計小学校の校庭に、張りぼてのゼロ戦が置かれていたのだ。あたりに事情を伺う人家もなく、戻って調べたらテレビドラマのロケに使われたものだという。
 ふたたび山野線の廃線跡に戻る。機関車の車輪が記念碑として置かれた薩摩布計駅から線路はトンネルに消えるが、次の久木野駅の間に大川ループという鉄道名所があったのだ。

08 09

10

 やはりここも肥薩国境の峠を越えるために設けられた直系400㍍ほどのループ線で、標高380㍍の鹿児島側から限界に近い急勾配と急カーブで、一気に約40㍍の標高差を一回転して結んだものだった。
 現場は水俣湾にそそぐ久木野川の上流、大川集落の棚田にあった。
クルマ一台がようやく走れるような道を登っていくと、草に覆われた大きな築堤があり、最後は息をきらせながらのぼり詰めると、こつ然と線路が現れた。
「大川ループ」だった。
 ちょうど大川集落の谷の一角にループ線が築かれていて、その築堤の内側に農家が一軒すっぽりと入っていた。
今は列車が走ることはない線路に腰をかけて下界を眺めていたら、その農家の小学生がひとり学校から帰ってきた。
 日本には上越線に2か所、土佐くろしお鉄道、北陸本線、肥薩線にそれぞれ1か所、そしてこの山野線大川ループを含めて6か所の山岳ループ線があった(樺太は除く)。
 ここから大畑ループまでは尾根を伝っていくとわずか約15キロ㍍の距離。
それにしても、面倒なところにわざわざ並んで線路を作ったものだ。
あの西南戦争から32年後に肥薩線が開通。明治政府は、天然の城壁に守られた薩摩鹿児島を鎮めるために鉄道建設を急いだのか。
 そんなことを考えてしまう肥薩国境の2つのループ線だった。

■杉崎行恭(すぎざき・ゆきやす) 西に廃線になりそうな鉄道があれば、行って乗客数を増やす助けになり、東にオンボロのプロペラ機があれば、行ってこわがらなくてもいいとみんなに言う、あらゆる乗り物を愛するフォトライター。『日本の鉄道車窓100選』(新潮新書。共著)など著書多数。ウェブサイト「http://sugizaki.oline.jp/」も適宜更新中

前の記事

次の記事

」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:

この記事へのトラックバック一覧です: ふたつのループ線と一機のゼロ戦: