【連載】蕎麦を待つ間に 第7回:正月蕎麦の伝統
大晦日に、なぜ蕎麦を食べるのか。年越し蕎麦の由来は誰も知らない。しかし年越しにはなぜか、蕎麦を食べることになっている。
では一夜明けて正月はどうか。正月は餅というのが一般的だが、実は元旦に蕎麦を打ち、これをいただいて新年を祝うという地方が、少なからずあるのだ。
たとえば福島県会津地方には、「もちそば(餅蕎麦)のごっつぉ(御馳走)」という言葉がある。
この地方では、心のこもった持て成しを受けたとき、客は「いやあ、きょうは餅蕎麦のごっつぉでした」と礼を言う。これが最大級の感謝の気持ちを表す言葉なのだ。
餅も御馳走、蕎麦も御馳走。餅と蕎麦を同時に供するのが、この上ない持て成しとなる。だから会津では、供された料理に餅も蕎麦も出ていなくても、贅沢な料理をいただいたときは、「餅蕎麦のごっつぉでした」と言って感謝するのだ。
そもそも蕎麦は、米が穫れない寒冷地や、不作のときなどに、米の代用として栽培される救荒作物としての役割を担わされてきた。山間の蕎麦処といわれる地方のお年寄りに話を聞くと、まるで口裏を合わせたように同じことを語ってくれる。
曰く、昔は米が穫れないので、蕎麦が主食だった。それも蕎麦切りではなく「蕎麦がき」にして食べた。朝も、昼も、夜も蕎麦がき。それがいやで仕方なかった。製粉も良くなかったためジャリジャリしていて、噛んでいるうちに水分を吸って口の中で増えてくる。子供はそれが飲み込めず、もういらないと言っては親にしかられ、泣きながら食べたものだったという。
そんな蕎麦が、なぜ御馳走なのだろうか。
つまり餅も蕎麦も、作るのに手間がかかる。そこが御馳走なのだ。
蕎麦は同じ原料を使っても、調理法によって御馳走にもなり、粗食にもなる。東北地方では、蕎麦のことを「はっと」と呼ぶ地方があるが、これは「御法度」の意味だ。江戸時代、農民たちに、「蕎麦切りは贅沢なので食べてはならぬ」と禁止令が出たことがあった。そのことから蕎麦のことを「はっと」と呼ぶようになったのだいう。
日常食べている蕎麦がきは、おかまいなしだが、延して細く切って蕎麦切りにすると、とたんに贅沢品になる。
会津の正月は、ある意味で「幕府公認の贅沢品」ともいえる、餅蕎麦のごっつぉを堪能できる、うれしい行事なのだ。
そして雪深い新潟県の妙高山麓にも、同じような風習がある。この地方でも正月は、餅も食べるが、蕎麦も食べる。山で獲ったヤマドリの肉を入れた蕎麦が、最も贅沢な御馳走蕎麦となる。
妙高山麓でも、蕎麦は貧しい食べ物であると同時に、神に供える神聖な食物であった。
あまり知られていないことだが妙高山は、室町時代の戦国期(1467から1573頃)には修験者が修行する一大聖地であり、山麓には宝蔵院という寺があった。ここは七堂伽藍、神社僧坊72区を有する大寺院だったが、天正10年(1582)、織田信長軍により焼き払われた。
江戸時代に入って「妙高山雲上寺宝蔵院」の名前で再興し、幕府の庇護のもと、再び隆盛を見たが、この寺院周辺には、信州の戸隠にも匹敵する豊かな蕎麦食文化が存在したと言われている。
寺院に伝えられた古文書には、正月は妙高山麓の有力者が、蕎麦を持参し、こぞって寺に挨拶に行ったことが克明に記録されている。蕎麦は修験者にとって、修行中口にすることを許された命をつなぐ貴重な食料であったが、同時に、寺院の歳時に、蕎麦切りにして味わう贅沢な食品でもあった。
妙高市のすぐ近くが、極上のコシヒカリを産する魚沼であることからわかるように、同地は美味しい農産物が豊富に穫れる地域。また日本海にも近いため、蕎麦以外にも贅沢な食品が多種あった。蕎麦が御馳走として扱われる場所は、会津も妙高もそうだが、米などが豊富に穫れる豊かな土地が多い。
この妙高市には現在も脈々と、往時を偲ばせる蕎麦食文化が受け継がれている。『サライ』2009年12月号で紹介した蕎麦店『こそば亭』では、正月蕎麦の代表、鶏肉を入れた「とりそば」を味わうことができる。
正月に襟を正して日本伝統の蕎麦をいただく。一年の始まりに、ふさわしい風習ではないだろうか。
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