【連載】蕎麦を待つ間に 第6回:乾麺、あなどることなかれ
某雑誌の編集部にBさんという、酒と旨いものに、ちょっとうるさい編集者がいる。一緒に食事をしたときBさんが言った。「蕎麦なんてさ、乾麺でいいんだよ。酒のつまみには乾麺で十分」。
これは、いつかBさんに美味しい手打ち蕎麦を食べさせてあげなくては、と思いながら、僕は話題を、蕎麦以外のテーマに切り替えたのだった。
その後しばらくして、評論家の吉本隆明さんのお宅に取材にうかがった。吉本さんは蕎麦が好物で、いつも召し上がっているという蕎麦を茹でて、御馳走してくださった。
それが乾麺だったのだ。
新潟県十日町市の玉垣製麺所で作られている『妻有そば』という乾麺。この地方の郷土蕎麦である「へぎ蕎麦」を乾麺にしたもので、強い弾力のある個性的な蕎麦だった。
ああ、これは食感を楽しむ麺だな、と思いながら、その美味しさに感心していただいた。
そして今年の夏、北海道は羊蹄山の山麓に広大なソバ畑を持つ農家を取材した。ここは自分の畑で栽培したソバをそのまま出荷するだけでなく、自社工場で蕎麦粉に製粉し、さらに手打ち蕎麦にして供する店も経営する、いわば蕎麦専門の農園レストランだった。
畑や蕎麦の店の取材を終えて帰ろうとする僕に、この店のご主人が言った。
「片山さん、これはうちの畑で穫れたソバで作った乾麺です。よかったら、召し上がってください」
僕は、ありがたく頂戴して、帰宅した。
さて、家に帰った翌日、早速その乾麺を茹でてみた。内心、あまり期待していなかったのだが、脳裏にあのご主人の笑顔が浮かんできて、丹誠込めて作った蕎麦を頂戴したのだから、やはり、いただかなくては申し訳ないと思いながら。
取材旅行から帰った翌日なので、早急に処理しなければならない仕事がたまっていて忙しかった。だから茹でた乾麺を、冷水で締めることは省略して、熱いまま茹で湯とともに丼に移し、釜揚げ蕎麦として食べた。
これがなんと、びっくりするほど美味しかったのだ。僕の中にある乾麺の概念を覆す旨さだった。
さらに蕎麦湯を飲んで、また驚いた。この乾麺は、つなぎを入れず、蕎麦粉だけで作られた十割蕎麦だった。通常、手打ち蕎麦を茹でたときには、蕎麦を打つ際に振った「打ち粉」が、蕎麦湯に多く溶け出しているものだ。打ち粉は、ソバの実の中心部分の粉なので、蕎麦特有の香りは希薄で、蕎麦の味も強くはない。
それが、この十割蕎麦の乾麺の場合、製造時に打ち粉を使っていないため、蕎麦湯に溶け出しているのは、麺を形作っている蕎麦粉そのもの。だから茹で湯は、とろりとして、味も濃厚で、とても美味しい蕎麦湯になっていた。こういう蕎麦湯は、手打ち蕎麦では望めないものだろう。
興味がわいて、近くのスーパーマーケットで売っていた乾麺の十割蕎麦を買ってきて味見してみたが、こちらはさほどのことはなかった。やはり同じ十割蕎麦の乾麺でも、製造者によって大きな違いがあるようだ。
乾麺の味に驚いた直後、絵本作家の田島征三さんがアトリエで蕎麦パーティーを開くというので、僕もおじゃましてみた。そこで出てきたのが偶然にも、吉本隆明さんのお宅でいただいたのと同じ、あの『妻有そば』だったのだ。あらためて食してみると、やはり独特の食感が楽しく、十分に美味しい蕎麦だった。
そうか、と僕は、脱帽の心境だった。
乾麺は美味しくないものと、偏見を持っていた自分が恥ずかしかった。こんなに美味しいうえに、台所の戸棚に保存できて、いつでも簡単に茹でて食べることのできる乾麺とは、なんと素晴らしい食品だろう。それ以来、僕は、地方で見たことのない乾麺を見つけると、裏返して、原材料名などを熟読し、興味がわくと購入して帰ることにしている。
乾麺あなどることなかれ。乾麺製造業者の皆さん、大変失礼いたしまた。
なお、「蕎麦なんてさ、乾麺で十分」と教えてくれたBさんに、片山もこの体験を語り、一緒に「乾麺はいいね」という話で盛り上がった。
その後、Bさんと一緒に雑誌で蕎麦の特集記事を作り、Bさんは僕の推薦する手打ち蕎麦屋を食べ歩いた。その結果、すっかり手打ち蕎麦の虜になってしまい、先日は自分で蕎麦を打ってみたという話を聞いた。試食してくれた奥さんには、「太くて、うどんみたい」と不評だったとか。
手打ち蕎麦も乾麺も、それぞれに捨てがたい魅力がある。蕎麦というものは実に幅広い楽しみ方ができる、懐の深い食べ物である。
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