【連載】蕎麦を待つ間に 第10回:名人の短い蕎麦
蕎麦は本来、長くつながっているものだ。だからこそ昔から歳時などに、「細く長く」の縁起をかついで食されてきた。
蕎麦を長くつなげるために、人々は様々な工夫を重ねてきた。良く知られているのは、小麦粉を「つなぎ」として蕎麦粉に混ぜる方法。さらに山芋を入れたり、海藻の「ふのり」を混ぜたりする方法もある。
古い例では江戸時代、寛永20年(1643)に発行された料理書『料理物語』の中に、蕎麦切りの作り方として「めしのとりゆにてこね候て吉」とある。「めしのとりゆ」とは、水の量を多くしてご飯を炊いたときに、余分な水分として取れる糊状の湯。つまり重湯(おもゆ)のようなものだ。この本が書かれた時代には、まだ小麦粉によるつなぎは普及していなかったので、それ以前は、つなぎが必要な場合、重湯のようなものを蕎麦粉に混ぜて打っていたことがわかる。
さて、長くつながっていることは、蕎麦が蕎麦と呼ばれるために、どうしても必要な条件のひとつとさえいえる。
しかし僕が「西の横綱」と思っている蕎麦打ち名人は、短い蕎麦を打つ。箸でつまんで口に入れるとき、麺の長さは4〜5センチ、あるいはもっと短いものもある。
名人の名前は槻谷英人(つきたに・ひでと)。槻谷名人の蕎麦を食べるには、東京から寝台特急に乗って11時間30分。島根県松江市まで、わざわざ行かなくてならない。この町で名人は『ふなつ』という小さな蕎麦店を経営している。
『ふなつ』を訪ねる旅は列車が似合う、と僕は勝手に思っている。東京-松江間900キロの距離を一気に飛び越えて、楽々着いてしまう飛行機ではなく、夜を徹して地を走り続ける列車で行かなくては、槻谷さんが魂を込めて作った蕎麦に申し訳ない気がするのだ。
「片山さん、僕はブツブツと、短く切れる蕎麦粉が好きなんです」と、槻谷さんは言う。その言葉通り、槻谷さんの作る「釜揚げ蕎麦」は、とても短いうえにブツブツ切れる。そして、あっと言う間に、その麺もへたってヨレヨレになってしまう。しかし、これだけうまい蕎麦には、ちょっとやそっとでは、お目にかかれない。
熱々の釜揚げ蕎麦を口に入れると、蕎麦の温かさと優しい甘さが口中に広がり、プツプツした粗挽きの食感が舌にまとわりつく。たちのぼる香りは、冷たい蕎麦とは比べようもないほど強い。短い蕎麦は口の中で溶けて茹で湯と混ざり、のどもとを過ぎて胃を温め、体中を幸福感で満たしてくれる。
釜揚げ蕎麦とは茹でた蕎麦を、そのまま茹で湯ごと丼に盛って客に供するもの。
通常、東京などの蕎麦屋さんで食べる温かい蕎麦は、茹であがった熱い麺を一度冷水で締めてコシを出し、それを再び熱湯にくぐらせて温め、丼に用意した熱い汁の中に入れて作る。丼に入った温かい蕎麦という外見は同じだが、作り方も味も、「釜揚げ蕎麦」とは、まったく異なる料理といえる。
槻谷さんの釜揚げ蕎麦は、どうしてこんなにおいしいのだろうと考えてみて、「そうか!」と気づいた。これは麺の形をした「蕎麦がき」なのだ。
蕎麦がきは、蕎麦粉を熱湯で捏ね、瞬間的に食べられる状態にする料理。蕎麦粉の持っている味を、損なわずに楽しめる食べ方だ。「釜揚げ蕎麦」は、一般的な「かけ蕎麦」と名前は同じ「蕎麦」だが、むしろ蕎麦がきに限りなく近い食べ方といえる。
この蕎麦のうまさは、もちろん槻谷さんの技術によって引き出されたものだが、その土台となるのは、ソバの実そのものに備わっている味の良さだ。材料のソバがおいしくなければ、いくら槻谷名人といえども、こんなにすばらしい蕎麦を作り出すことはできない。
槻谷さんは、松江から車で一時間ほど走った奥出雲町で栽培した奥出雲在来のソバを使っている。これは奥出雲付近で、遠い昔から栽培されてきたソバで、かつて蕎麦好き大名の松江藩主、松平不昧公が、将軍に献上したソバとして知られている。種実はとても小くて、風味に優れている。近年、改良品種の栽培が広がり、奥出雲在来は絶滅の危機に瀕していた。それを槻谷さんもかかわり、奥出雲の町ぐるみで復活させたという経緯がある。
槻谷さんは、長らく奥出雲在来を使ってきたが、数年前、天候不良によるソバの不作の年があった。店で出す分さえ在来種の確保が難しい状況を体験して、槻谷さんは考え方を変えた。ソバの生産者が作りやすいやり方、品種で栽培してくれればいい。そう思える境地にたどりついたのだ。
在来種以外の品種でも、奥出雲のソバは秀逸だ。槻谷さんの腕なら、その味を完全に引き出して、うまい釜揚げ蕎麦を作ることができる。しかし僕は、叶うものなら、奥出雲在来100パーセントの『ふなつ』の釜揚げ蕎麦を、食べさせていただきたいと願っている。
槻谷さんは今も、奥出雲の農家に依頼してソバを栽培しながら、あいかわらずブツブツ切れる短い蕎麦を打っている。蕎麦は長いほうがいいか、短いほうがいいかと誰かが尋ねたら、僕は「うまいほうがいい」と答えようと思っている。
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