【連載】蕎麦を待つ間に 第8回:天井裏からソバの俵が
「もしも」という仮定は想像力の翼に力を与え、楽しい夢を見させてくれる。「もしもタイムマシンで江戸時代に戻って、農家からソバの種をもらってきたら」いったい、その蕎麦は、どんな味をしているのだろう。実はそういうことが夢ではなく、現実に起こったのだ。
もちろんタイムマシンなどという便利な機械があるわけではない。江戸時代に隠されたソバの俵が、福島県の豪農の天井裏で人知れず160年の歳月を過ごし、平成のある日、古民家を解体しようとしていた現代の人々に発見されたのだという。
昨年の初夏、僕の家の郵便受けに、山形の鈴木製粉所から蕎麦の試食会の招待状が届いた。何の試食かと封筒を開いてみると、書かれていたのは天井裏から出てきた、その蕎麦のことだった。
冷害などで凶作が続き、人々が飢饉で苦しんだ天保時代、福島県の豪農が非常時に栽培するようにと、屋根裏にソバの種を保管しておいたのだという。ソバという作物は成長が早く、種を播いてから75日で収穫できる。その早さが買われ、昔から稲が凶作のときなど、ピンチヒッターとしてソバが播かれ、人々を飢えから救ってきた。ソバは主食ではなく救荒作物として、ずっと人間に寄り添い、その命を守ってきたのだ。
福島の豪農も次の凶作のときは、このソバを播こうと思って天井裏に隠したのだろう。しかし幸いにも、それを使う必要がなかったのか、あるいはすっかり忘れていたのか、俵に詰められたソバの実は、出番を告げられることもなく、屋敷が解体される平成の時代まで、静かに眠り続けたのだ。
160年も経った種実は、まだ生きているのか。ちゃんと発芽して実を結ぶことができるのか。天井裏から出てきたソバは、あちこちの専門機関に送られ、栽培が試みられた。
だが結果は全滅。注意深く発芽試験を行ったのだが、どこの研究機関でもソバが芽を出すことはなかった。栽培試験の結論は「すべての種子で胚は発芽活性を喪失、成長能力はない」とのことだった。
そこで最後の望みを託されたのが、今回僕に招待状をくれた鈴木製粉所の先代の社長、鈴木彦市さんだった。鈴木さんは農家に伝わる昔からの言い伝え「ソバを播くときは、水はいらない」という言葉を忠実に守って栽培を試みた。ミズゴケを細かく切り刻み、その上にソバを播き、ミズゴケに含まれているごく少量の水分だけで育ててみたのだという。その結果驚いたことに、160年前の種実が芽を出したのだ。喜びに湧く人々。小さな双葉は「天保そば」と名付けられた。
数粒の種から芽を出したソバは、少しずつ栽培量を増やし、今年、試食会を行うのだという。僕はすぐに電話をして、必ず伺いますからと、席を確保しておいてもらった。
試食会の日、現在この種を管理している育種の専門家、横川庄栄さんにお話をうかがうことができた。これがまさにタイムマシンで入手した蕎麦の物語。聞けば聞くほど、興味が深まる話だったのだ。
まず、このソバの個性だが、現代のソバからは考えられない、実に多様な個性の種実が入り交じっているのだという。
品種改良されていない、こういう昔ながらのソバは「在来種」と呼ばれている。天保そばは、いわば160年前の在来種なのだ。
通常、一握りの在来種のソバの種には、様々な特性を持った種実が多種類、混在している。暑い気候に強いもの、また弱いもの。背が高く伸びるもの、反対に背が低いもの。ゆっくり育つもの、成長速度の早いもの等々。この一握りが初めてどこかの土地に播かれたとき、その中から土地に最も適合した特性を持つソバの実が成長し、子孫を残す。台風が多い土地では、風に弱いソバは倒伏して子孫を残せなくなる。だから代を重ねるごとに、在来種のソバは土地にあった特性を持つ種に絞られてくるのだ。
それがこの天保そばは、現代の在来種に比べて、極端に個性の幅が広いのだという。だから種を播いて、収穫時期にちゃんと実になり、刈り入れできるものが少ないという結果になる。農家にしてみれば、収量が少なく、実に栽培しにくいソバなのだ。裏返せば、様々な生育条件に臨機応変に対応できる、驚くべき適応能力を持っているともいえるのだが。昔の人は、こういうソバを栽培していたのだ。
そして病害虫に極端に弱いという特徴もある。これも裏返していえば、天保の時代の畑は、まだ農薬など使われたことがないわけで、そういう土に慣れているのが、このソバなのだ。現代の畑は農薬を多用したなどの理由で、土の力が衰え、病原菌などが繁殖しやすくなっているのかもしれない。そのため免疫のない天保そばは、現代の強力な菌に負けてしまうのではないだろうか。時代の推移と、自然環境を作り替えてきた人間の歴史が、時間を飛び越えてやってきた一握りのソバから透視できるのである。
さて、問題のその味だが、横川庄栄さんにうかがった話では、「野性的な味で、美味しい」とのことだった。野性的とは抽象的だが、要するに、まだ未熟な実がかなりの割合で混ざっているので、草のような風味を感じるということだ。ソバの実の個性が、早生、晩生など、幅広く混在していることが、未熟な実が多い理由だろう。現在、福井県などで行っている「早刈り蕎麦」に似た味ではないかと思われる。
試食会でいただいた蕎麦には、残念ながらその特徴が現れていなかった。
なぜか。
都会風の白い蕎麦に仕上げようと、ソバの実の中心部分だけを取り出す製粉にしたことと、小麦粉をつなぎに入れてしまったのが原因だ。こうした方法をとると、蕎麦本来の味、香りは、わかりにくくなってしまう。
今年の試食会では、ぜひとも、甘皮まで挽き込んだ挽きぐるみの蕎麦粉を生粉打ちにしていただき、「天保の野性味」を堪能させてもらいたいものである。
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