【連載】蕎麦を待つ間に 第9回:蕎麦屋の品格
蕎麦屋で長居することは、「蕎麦屋の長尻(ながっちり)」と呼ばれ、無粋な行動の典型のように言われている。
反対に蕎麦屋で好まれる客は、酒をグイッとひっかけて、もり蕎麦などをザッと手繰り、さっさと店を出るような人だ。「ごちそうさん、お代はここに置いとくよ」の声に、接客係の「花番」さんが振り向いたときには、もう、暖簾の向うに遠ざかっていく後ろ姿が見える。こういう客が昔から、粋な客とされてきた。蕎麦屋の作法といったようなものが、この世界にはあるのだ。
では、店に入ったら混んでいて、見知らぬ客と相席になったとき、何か作法のようなものはあるのだろうか。
沖縄の蕎麦店『美濃作』主人・小山 健さんは研究熱心な人で、東京に出てきたときは、いろいろな蕎麦店の食べ歩きを欠かさない。あるとき、浅草は雷門にある老舗『並木薮蕎麦』を訪ねた。あいかわらず店は混んでいて、9割の座席は埋まっている。「ご相席、お願いいたします」と、花番さんに案内され、隅のテーブル席に、ひとりで座っている客と相席になった。
「失礼します」と声をかけて、小山さんは腰をおろした。向かいの客は徳利と盃を手に、「どうぞ」と、返事した。
蕎麦屋で長尻は禁物。小山さんは、ざる蕎麦を一枚手繰り、早々に椅子から立ち上がった。そのとき向かいの客が軽く頭を下げながら、「相席していただいて、ありがとうございました」と、挨拶したという。
小山さんは、体が震えるほど感動した。
この話を小山さんから聞いて、僕も胸が熱くなった。きちんとした蕎麦屋には、それにふさわしい上客が集うのだ。これが蕎麦屋の品格というものだろう。
『並木薮蕎麦』のスタイルを完成させた先代・堀田平七郎さんは、江戸っ子とは、こういうもの、粋とは、こういうものという定義をきちんと持ち、蕎麦の世界で禅味、俳味を追求した人だった。
本来なら秘伝であるはずの、同店伝統の蕎麦つゆの作り方を一般に公開して、「どんどん真似して欲しい」と言った懐の深い人物だ。だから『並木薮蕎麦』の蕎麦の味には、一本、筋金が通っている。
店の雰囲気を決めるのは、店主の人柄であり、心意気だ。『並木薮蕎麦』は、こういう店だから、「相席していただいて、ありがとうございました」などと、ごく自然に口にできる客が常連になる。できるものなら、こんな客と相席して恥ずかしくない人間になりたいものだ。
蕎麦屋に入る前には、暖簾の前で一度立ち止まり、「果たして自分はこの店に、ふさわしい客なのだろうか」と自問してみるのは、蕎麦屋の作法の初めの一歩と言えるのかもしれない。『並木薮蕎麦』の前に立つと、いつも、そんな気持ちにさせられる。
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