【連載】蕎麦を待つ間に 第13回:「手繰る蕎麦」と「すする蕎麦」
茶漬けを「掻き込む」といえば、茶碗を口に付けたまま、箸でザッザッと食べる姿を思い浮かべる。鮨を口に「放り込む」といえば、いかにも気風のいい、江戸っ子の食べ方を連想する。林檎は「齧りつく」とも言うし、飯を急ぎ「認める(したためる)」などの古風な言い方もある。同じ食べる仕草でも、その食物によって言い方は様々だ。
蕎麦は、手繰る、すする、喉ごしで味わうなど、いろいろな言い方をされるが、では「手繰る蕎麦」と「すする蕎麦」は、いったいどう違うのだろう。
本などの記事を書く仕事をしていると、蕎麦の食べ方の表現として、「手繰る」と書くのか、あるいは「すする」にするのか、編集者との間で意見が別れることがある。僕は、そういうとき、「すするは、やめましょう」と進言する。「手繰るか、それがだめなら食べるとか、食すにしましょう」と。
書いて人にものを伝える仕事では、どういう表現をするのかは、時には口角泡を飛ばして議論するような、大問題となることがあるのだ。
「蕎麦は噛むもんじゃない。喉ごしで味わうものさ」などと言う人がいるが、噛まずに呑める蕎麦は、細いことが条件となる。山形などで有名な、鉛筆のように太い蕎麦は、どう頑張っても、噛まずに呑む込むことはできないだろう。場合によっては、噛んでもなかなか飲み込めなかったりする。
江戸にも、伝統の太い蕎麦がある。『神田まつや』に見られる「太打ち」。割り箸ほどの太さがあり、これも噛まないで喉ごしを楽しむというわけにはいかない。しっかり噛んで味わう蕎麦だ。
こういう蕎麦は、手繰ることも、すすることも難しい。
「すする」という言葉を広辞苑でひいてみると、「液状のものを口に少しずつ吸い込む」とある。蕎麦の場合は、いくら細くても固形物なので、「すする」が適切かどうか疑問が残る。そして広辞苑にもうひとつ、「すする」の意味として紹介されているのが「鼻汁を吸い込む」という例だ。食べ方の表現として、どうもあまり美しくない。
それでも温かい蕎麦を食べる場合は、甘汁とともに蕎麦を吸い込む食べ方もするので、こういう場合は「すする」と表現しても間違いではないだろう。そんなときは、僕も「すする」と書くことがある。
一方、「手繰る」だが、これも広辞苑でひいてみよう。意味は「両手を交互に使って手もとへ引き寄せる」とある。さすがに蕎麦を食べるのに、両手を交互に使って手もとに引き寄せて口に入れる人は、いないだろう。いや、ひょっとしたらどこかにいるかもしれないので、「いないだろう」ではなく「少ないだろう」と書いておこうか。
蕎麦を手繰るという言い方は、いかにも粋を気取った江戸っ子が好んで使いそうな雰囲気があって、江戸の大衆食であった蕎麦にはぴったりの言い方だと思う。その語源をたどると、もともとは江戸時代の大工さんの隠語で、蕎麦のことを下縄(さげなわ)と呼んだことから始まったといわれている。下縄とは、土蔵の木舞(こまい)に結んで下げた縄で、土壁に塗り込んで壁の強度をあげる目的で使う。「縄」だから「手繰る」。ここから「蕎麦を手繰る」という言い方が広まったようだ。
噺家なども好んで、「手繰る」を使う。岡本綺堂の小説『半七捕物帖』でも、この言葉が使われている。
温かい蕎麦の甘汁の中に入った蕎麦は、ちょっと手繰りづらいかもしれない。手繰るのは、やはり、冷たい蕎麦だろう。
しかし「手繰る」という言い方は、文字で書く場合は抵抗ないのだが、自分の口から言葉にするとなると、粋がっているみたいで気恥ずかしさを覚えることもある。食べ方や味の表現というのは、なかなか難しい。
蕎麦は何も考えず、ただおいしいなあと思って食べるのが一番だ。取材で長時間、車を走らせて、サービスエリアで立ち食い蕎麦を食べるときなど、仕事のことは忘れて、ただ「おいしいなあ」と思って食べる瞬間がある。そういうときの蕎麦は、どこかの有名店の手打ち蕎麦より、ずっとおいしかったりする。
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