【連載】蕎麦を待つ間に 第16回:三つめの不思議は「蕎麦の香り」
「蕎麦を手繰ると、ほのかな香りが・・・」などと、僕も実際、記事に書く。通常の蕎麦店で食べる蕎麦の香りというものは、「さあ、これから蕎麦の香りを嗅ぐぞ」と、神経を集中しなければ、わからないほどに希薄なものだ。「なぜ蕎麦の香りは“ほのか”なのか」。これが「蕎麦屋の七不思議」の三つめの不思議で、実は大問題をはらんだ謎なのだ。
先日、このごろテレビや雑誌で引っ張りだこの、人気蕎麦店の取材をした。この店は、地方の農家に栽培してもらった在来種の高品質な玄蕎麦を使い、石臼で自家製粉し、粗挽きの細切りにした見事な蕎麦を出す。
これだけの麺は、ちょっとやそっとの腕では打てないぞと、一目見ただけでわかる蕎麦だ。蕎麦つゆも、蕎麦切りそのものに負けないくらい材料を吟味し、手間ひまかけて調理する。マスコミは最高の賛辞を惜しげもなく捧げ、店の前には開店前から長蛇の列ができるほどの人気店となっている。
僕は、その店の主人が茹でてくれた見事な蕎麦を、期待に胸を弾ませながら、口に運んだ。
「ん・・?」と思わずつぶやいたのは、蕎麦の香りがしなかったからだ。
もう一口食べ、目を閉じて、神経を集中してみても、やはり香りがしない。
取材には僕のほかに、男性、女性、ふたりの編集者が同行していた。彼と彼女も、同じように蕎麦を試食していたので、僕は聞いてみた。
「香り、する?」
返ってきた返事は、ふたりとも同じ。顔を横に振る「NO」のサインだった。
僕は店主に「ここまでの細切りにしては、香りは残っている方だとは思いますが、茹で時間は何秒くらいですか?」と訊ねた。
店主の表情がこわばった。数秒、沈黙したあと、その顔に笑みを広げながら言った。
「香りの感じ方は、ひとそれぞれ個人差が大きいので、片山さんが薄いと感じられたら、それは何も申し上げることはありませんが、私はこの蕎麦は、香りが薄いとは思っていません。そして蕎麦切りの細さと、香りの濃い、薄いは、関係ないと思っています」
たしかに香りの感じ方は、ひとそれぞれなので、この店主は多分、嗅覚がとても鋭敏な人なのだろうと思い、それ以上、この問題を突っ込むのはやめにした。
それからしばらく、よもやま話をしているうちに、店主がフッと本音を漏らした。
「蕎麦を作っている人間が、こういうことを言ってはいけないと思うんですが、実は香りには自信がないんです」
店主曰く、香りというものは、とても不安定なもので、同じときに打った生蕎麦を、最初に茹でて食べたときは香りがすると思ったのに、二度目に茹でて食べたら、香りを感じないことがある。また、同じ蕎麦切りを食べて、自分は香りがあると感じるのに、友達の蕎麦職人は、香りがしないと言うこともある。だから正直をいうと、蕎麦の香りは、良くわからないのだ、と。
まさに、それは正直な告白で、よくぞ言ってくれたと思う。たぶん彼と同じことは、多くの蕎麦好きの人が感じているのではないだろうか。
香りというものは、その日の体調によっても感じ方が変わるし、ひとの嗅覚は、しばらく同じにおいを嗅いでいると、麻痺して感じにくくなるという特性を持っている。店主が指摘した通り、感じ方の個人差も大きいし、そのときの意識の持ちようによっても鈍くなったり、敏感になったりする。
また、食材についていえば、すべての香りは揮発性であり、特に蕎麦の香りは調理の過程で失われやすく、最後に客に供する段階まで香りを維持することは、とても難しい。だからこそ蕎麦は香りが命であり、蕎麦の本質は香りにあるとまで言われたりするのだ。
さて、ここまで読み進んで、なるほどと納得していただけただろうか。実をいうと、ここまで書いたことは単なる前置きで、僕が本当に取り上げたい問題は、ここから先にあるのだ。
あまり知られていないことだが、蕎麦の香りというものは、本来そんなに薄いものではない。神経など集中しなくても、口に入れればガツンと感じるものなのだ。
きちんと栽培され、収穫後に正しく処理された蕎麦は、とても強い香りを有している。味も驚くほどに濃厚だ。その味と香りが、我々が食べるときには、いったいなぜ、薄くなってしまうのだろうか。
これが「蕎麦屋の七不思議」の三つめの不思議なのだが、本当のことをいうと答えはわかっている。わかってはいるが、説明するのが実にやっかいな問題なのだ。解説するには、まるまる本一冊分ぐらいのスペースが必要となる。だから言いかけて途中でやめるみたいで申し訳ないのだが、ここではひとまず問題提起だけにとどめておきたい。
さらに詳しいことは、また折をみて、『サライ』の特集記事などで、随時ご紹介したい。思わせぶりで恐縮だが、なにしろ「蕎麦屋の七不思議」なので、答えが提示できないことが多いのだ。
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