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【昭和が目にしみる】第1回:『かもしかみち』をあるく その3

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■「かもしかみち」から「みやこみち」へ
 平出遺跡からじつはもうひとつ、貴重な遺物が出ている。
「昭和22年の調査で、ここから平安時代と思われるめずらしいものが見つかったんです」
 この年の発掘は小規模ではあったが、平出には縄文から平安時代まで、途中数百年の断絶をのぞき、連続して人が住んでいたということが明らかになったと小林先生(詳しくは、前回参照)から教わった。平安時代とはずいぶん時代が下がる。縄文5000年の悠久に比べれば千年前の遺跡など、平城京の奈良、平安京の京都、都の本家に任せておけば十分のような気もするが。

小林:それをきっかけに、ここで平安時代の遺跡の復元にも着手したんですよ
--京都ではなく、塩尻で平安遺跡の復元ですか
小林:ええ、全国でも地方の平安遺跡の復元はあまり例がないと思います

 はじめはその価値がわからなかった。意味すらわからなかった。ぽかんとしていると、小林先生はさらりと言ってのけた。

小林:平安時代には租(農作物)、庸(労役)、調(布)の徴税システムができあがり、全国からさまざまなモノが京の都に集まりました。貴族社会は消費ばかりで生産しませんからいつも物入りです。衣食住を全国から調達しないとやっていけない。信州からも、都の人が着る被服の素材、麻の布が収められていたのではないでしょうか。ここで忘れてならないのは、モノが動いたということは、人も動いていたということです。ここから東山道(とうさんどう)を通り京の都まで、税の麻を運んだ人がいるわけです。おそらくこのあたりで大きな勢力を誇っていた家の誰かが京まで往復していました。それは大変なカルチャーショックだったと思いますよ。塩尻で生まれ、塩尻しか知らない人間が、京の都までの道中でさまざまなものを見聞きし、都の様子に圧倒され、ずいぶんショックを受けてここまで帰ってきたにちがいありません。貴族の暮らしをまねしたくなる人もいたでしょう。殿上人と同じものは持てなくても、位のある人が使うような器と似たようなものを所持したい、くらいのことを考えてもおかしくないでしょう
--ヤマト王権によるなんとなくの列島支配もすんだあと、全国から税を集めるルートもでき、モノも、それを運ぶ人も動いて、なかには都で見た器を手に入れて帰った人もいるかもしれない、そう考えるとダイナミックでおもしろいですね、でも実証できるんですか?
小林:それが、出ちゃったんです
--証拠が?
小林:ええ、出ました
--どんな?
小林:平安時代に、現在の愛知県の東濃地方で焼かれた緑釉の水瓶です。殿上人が使うほど高価なものではなさそうですが、庶民の日用品ではありません(冒頭の写真参照)
--どうやって手に入れたんでしょう
小林:このあたりのものではありませんから、都への往き来の際に手に入れたのかもしれませんね。塩尻から山越えをして京の都に向かうと、土岐、多治見という古窯地が東山道上にありますから、その地で焼成されたものでしょう
--その水瓶、見られるんですか
小林:平出博物館で常時公開していますから、帰りに寄ってみてください

 いま平出遺跡は小林先生らが中心となって、全国でもめずらしい「平安遺跡」として復元が始まった。

--大極殿なんてありませんね
小林:まさか。あくまで地方の集落の跡ですから地味といえば地味ですが、当時の遺構をもとに、平安期の建物を何棟が復元しています。緑釉の展示と合わせてご覧いただき、1000年以上前の塩尻の姿を想像していただくのも楽しいと思います

 長野の山間地で平安時代に人が暮らしていた遺跡とその出土品が見られるとは。言われればあたりまえのことだが、平安時代は京都だけのものであるはずがなかった。塩尻にも平安時代はあった。塩尻の人の目になって、平安時代を思うのはとても不思議だ。
 ここから見はるかす京都は遠い。
(続く)

■サライ編集部 副編集長 井本一郎

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