【連載】蕎麦を待つ間に 第21回:蕎麦つゆは、蕎麦屋の履歴書
小さな器にちょっぴり入った、魔法使いが薄笑いとともに差し出すような謎めいた黒い汁。それが蕎麦つゆだ。このつゆの中には、何が封じ込められているのか。店によっては、「秘伝です」とか「企業秘密ですから」などといって、教えてくれないところもある。謎のヴェールに包まれた蕎麦つゆを、蕎麦に付けて食べる。すると不思議や不思議、その蕎麦屋の歴史が見えてくることがある。
連載第20回の「魯山人流・蕎麦の食ひ方」にも書いたが、蕎麦職人は蕎麦つゆに、強い思い入れを持っている。だから店のつゆの味を決めるまでには、長い時間をかける。濃口醤油、淡口醤油、さらには溜り醤油などを使い分け、砂糖や味醂も吟味して作ってみる。出汁の材料もいろいろな食材を試してみて、最終的に「よし、これだ!」と、つゆの味を決定するのだ。味の感じ方は、個人差がある。だから蕎麦つゆには、蕎麦職人の個性が、はっきりと現れる。
ときどき、蕎麦つゆと蕎麦のバランスのあまりの見事さに、感動させられる店がある。そういうつゆは、一朝一夕に作れるものではない。悩み、研究し、数えきれないほど試行錯誤を繰り返した結果、最終的にたどりついた結論が、その味なのだ。蕎麦に蕎麦つゆを付けて味わってみると、どれほど遠い道のりを、この蕎麦職人は歩んできたのか、おぼろげながら見えてくることがある。蕎麦つゆは、蕎麦屋の履歴書のようなものだともいえる。
僕の知り合いにTさんという、非常に鋭い味覚を神様からたまわった蕎麦職人がいる。Tさんは研究熱心な人で、製粉まで熟知して、自家製粉で思い通りの蕎麦粉を作り、美味しい蕎麦を打つ。蕎麦つゆの作り方も並外れて凝っていて、独自に開発した手法で時間をかけて出汁をとる。寸胴に入ったままの出汁を味見してみると、まるで色とりどりの花が目の前で開花したような味の饗宴に驚嘆させられる。
これだけ旨い蕎麦と蕎麦つゆには、なかなか出会えないぞ、と思うのだが、この蕎麦店への客の入りは、いまひとつなのだ。特徴として、リピーターが少ないということがいえる。そんなに美味しい蕎麦なのに、なぜなのか。
理由は、はっきりしている。Tさんが仕上げた蕎麦つゆは、一般の人が味わうと、塩気が薄いと感じてしまうのだ。蕎麦切りをつゆにどっぷりひたして食べても、まだ薄い。味わいは決して不味いわけではないのだが、塩気が足りないために、どうしても不満が残る。この店にまた来て食べたいかと訊かれると、うーん、と考えざるを得ない。
この原因は、たぶん、Tさんの味覚が鋭敏すぎることにあるのだろうと、僕は思っている。Tさん本人は、自分の作った蕎麦つゆを味見してみて、旨味をたっぷり含んだ味の良さに、ひとり頷いて満足している。
しかし、神様から普通の味覚しか与えられていない僕のような凡人は、そこまで出汁の味わいを感じとることができない。だから出汁の旨味を感じない分だけ、塩気が足りないような気がしてしまうのだ。
僕は、よけいなお世話で、「もうちょっと塩味を濃くすれば、さらに美味しくなると思うのですが」と、Tさんに進言するのだが、彼は自分で不味いと感じるつゆを、客に出す気にはならないのだろう。いつまでたってもTさんの店のつゆは薄味のままなのだ。味の感じ方に個人差があることの、典型的な例だと思う。
僕の別の友人で、フランス料理のシェフのMさんは、こういうことは良く理解している。だから、高価なフランス料理を食べ残した客がいると、接客をしたスタッフに、その客は何歳ぐらいの人だったか。男性か女性か。どういう服装をしていたかなど、詳しく尋ねる。そして客が残した料理を実際に味見してみる。Mさんはこうやって他人の味覚と自分自身の味覚の違いを正確に把握し、料理の味を微調整して、客に食べてもらうのだ。
Tさんの蕎麦店では、Tさんと同じような味の感じ方をする客は、おそらく熱烈なファンになることだろう。だから必ずしも、蕎麦つゆの塩分を濃くしたら良いとも言い切れない。美味しさとは難しいものだ。
Tさんの店の蕎麦つゆの味が、今後、どのように変化するのか、あるいはしないのか。Tさんの蕎麦つゆにはこうして、彼の個性と試行錯誤の歴史が刻まれていくのである。
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