落語の楽しみ
昨年、大好評だった『落語 昭和の名人 決定版』(小学館刊)。一息ついた小坂真吾編集長に落語の魅力を改めて聞きました。
--昨年(2009年)1年間、CDつきマガジン『落語 昭和の名人 決定版』全26巻を出したわけですが、いま振り返ってどうですか?
CDも冊子も、内容としては手応えがありましたが、正直いって、ここまで売れるとは思いませんでした。創刊号が増刷を重ねて30万部、以下の号もなかなか部数が落ちない。買っていただいたたくさんの皆さんに、改めて感謝したいです。
--続編を求める声が多いと聞いていますけれど……
それを言われると心苦しい。じつは昨年末の最終26巻(三代目・桂三木助)で、「2010年春に続編を創刊します」と告知したんです。それで、準備を進めてはいるのですが……。
--つまり、この春は無理?
このシリーズは、名人の、たくさん残っている音源のなかから、本当に良いものを選りすぐって収録しています。そこが、初心者から落語通の方まで、皆さんに支持された。続編だからといって、そのハードルを下げたくないんです。それと、前回ラインアップに入れられなかった師匠が何人かいらっしゃる。そういう師匠も入れて、より完璧なものにしたいと思っています。そのためには、続編を楽しみにしている方々には本当に申し訳ないのですが、もうしばらく、時間が必要なんです。すでに編集部にも、お叱りのお電話を何本もいただいていますが、そういう事情なんです。
そのかわり、晴れて創刊のあかつきには、前回以上に満足していただけるラインアップになるはずです。
--『昭和の名人』シリーズの読者はもうご存じでしょうが、ここで改めて、初心者向けに、落語の楽しみを教えてください。落語って何がおもしろいのでしょう。単純にストーリーのおもしろさ、と考えていいんでしょうか?
私もついこの間までほぼ初心者でしたから、あんまり偉そうなことは言えません。とりあえず、落語を聴き始めたころに感じた素朴な疑問などをとっかかりにお話ししていこうと思いますが、まず、落語といってもいろんな話があって、その中には『芝浜』や『唐茄子屋政談』のように非常に良くできたストーリーもある。だけど中には、事件らしい事件がまったく起きない話もあるんです。
--いわゆる起承転結がない?
例えば、長屋の中で熊さんと八っつぁんが会話するだけ。『長短』なんていう噺は、その典型です。気の長い男と短い男が、煙草を吸いながら会話してる。ただそれだけなのに、八代目雷門助六の録音を聴くと、これがものすごくおもしろい。もう、腹を抱えて笑ってしまいました。
たとえ事件が起きるにしても、落語の場合、ストーリーだけ取り出すとすごく単純なことも多いです。古今亭志ん生が十八番にしていた『火焔太鼓』にしても、「古道具屋の主人が汚い太鼓で大儲けする」と、これだけでストーリーは要約できてしまいます。
--ストーリーだけじゃない。
ストーリー自体がこれはもうおもしろいよ、という噺は、誰がやってもそこそこおもしろくはなるでしょう。事件が起きなければ起きないほど、誰がやってもおもしろいものではなくなっていく。つまり演者を選ぶ。そんな傾向はあります。
ただ、どんな噺であっても、お客さんはけっしてストーリーを追って聴いているわけじゃない、ということは言えると思います。
--じゃあ、何を聴いているのかって話になりますが?
古典落語の噺の数って、数え方にもよりますが、300か400か、せいぜい500ぐらいと言われているんですよ。私は数えたことはないので、先人の受け売りですが。しかもそのなかには、今じゃ滅多に演じられないものもあって、実際に寄席や落語会で聴けるのは、200くらいという説がある。なかでも特にポピュラーな噺となると、50とか80とか、そのくらいだと思います。そういう噺なら、あるていどの落語好きなら、ストーリーはあらかじめわかってる。どこでどんな事件が起きるかわかってる。どんなオチになるかもわかっている。
私なんかは初心者に毛が生えたていどですが、それでも「初めて聴く、このあとどうなるかわからない噺」に出くわすのは、40~50席のうちに1席くらい。『たらちね』や『子ほめ』や『時そば』なんて、もう10回以上聴いてます。すでに何度も聴いている噺、知っている噺を、性懲りもなくまた聴いて楽しむわけです。
そうなると、ストーリーを追うのはあまり意味がない。それより、この場面をどう描写するか、人物の心理をどう表現するか、そばをすする音がどんな音か、どんな斬新なギャグを入れ込むか、語りの間やリズム、などというほうに自然に焦点が合います。すると同じ噺でも、演者によってまったく印象が違ってくるんですよ。これはストーリーを追うだけでは、あまり見えてきません。
--その意味では歌舞伎や能と似ている?
そうですね。ただ、歌舞伎や能は複数の役者の共同作業になるので、ひとりだけ勝手な演出をするわけには、なかなかいきませんよね。それに「伝統」の力が強いので、あまりに型破りな個性は抑制されやすいんじゃないかと。そちら方面にはあまり詳しくないので、あくまで推測ですが。
その点、落語はひとりで演じる芸能ですから、個性が発揮しやすい。その意味では、ジャズに似ているといったほうがわかりやすいかもしれません。よく言われることですが、古典落語は、ジャズのスタンダード・ナンバーと似てるんですよ。
例えば「朝日のように爽やかに」とか「マイ・ファニー・バレンタイン」とか、ジャズ好きならみんな、メロディーを知っている。でも、例えばマイルス・デイビスの「マイ・ファニー・バレンタイン」でも、『クッキン』というアルバムに入ってる「マイ・ファニー・バレンタイン」と、『マイ・ファニー・バレンタイン』ってアルバムに入ってる「マイ・ファニー・バレンタイン」(ややこしくてどーもすいません)は、全然違うわけですよ。もちろん、モダンジャズは〔テーマ→ソロのアドリブ→テーマ〕で1演奏ですから、中間のアドリブのところが違っているのは当たり前ですが、それ以前に、テーマ自体の演奏の仕方が、まったく違う。何これ、同じ人なの? 同じ曲なの?って思うくらい違います。
--じゃあ、なにが違うんですか?
メロディーはほぼ同じ(当たり前か)ですが、リズムと間が違う。単純に演奏スピードを比べると、『クッキン』の「マイ・ファニー・バレンタイン」で4小節進む間に、『マイ・ファニー・バレンタイン』のほうでは2小節も進まないんじゃないかな。ちゃんと確かめたわけじゃありませんが。つまり後者では、一音一音をすご~く伸ばしてるんです。それだけのことで、印象がまったく違う。
古典落語もそれと同じで、やる人が同じでも、やってるときの年齢とか、場所とかが違えば全然違って聞こえる。まして演者が違えば、顔も声も人生経験も違うんですから、どんなに似せようと思っても同じにはならない。
そこがおもしろいから、知っている噺でも最後まで聞いて楽しめる。むしろ、落語家の個性を味わうには、同じ噺のほうが都合がいいんです。どこが同じでどこが違うか、はっきりわかりますから。
--落語家それぞれの個性は、どんなところに表れるんでしょう?
物語の解釈や、登場人物の性格設定なんかに、典型的に違いが表れますね。同じ噺の同じ人物でも、まったくの善人として描くか、ちょっと計算高い善人として描くか、計算だけの非情な人間として描くか。美女を描くにも、クール・ビューティーとか、愛嬌があるとか、情にもろいとか、男を信じてないとか、いろんな選択肢があります。
「与太郎」というのは、薄ぼんやりした人物の典型で、頭の回転が鈍い、というイメージがありますが、世の常識を無視することを生き甲斐とするような、攻撃的な人物として描かれることもあります。
『牛ほめ』という噺では、おじさんの新築した家のほめ方を教わった与太郎が、いざほめようとすると、ことごとくけなす言葉に変わってしまう。「畳は備後(びんご)の五分縁(ごぶべり)」というところを「畳は貧乏のぼろぼろ」とやったり、「お庭は総体御影(みかげ)造り」が「お庭は総体見かけ倒し」になったり。この『牛ほめ』を、四代目春風亭柳好の録音で聴くと、これは言い間違いなんかじゃなく、馬鹿なふりして確信犯でやってるんじゃないかと思えてきて、笑いがより痛快なものになります。
この場合、聴いている側は、与太郎の言い間違いを笑うのではなく、おじさんの普請道楽を笑うほうにシフトしているんですね。笑う対象が変わって、笑いの質もユーモラスな笑いからシニカルな、皮肉な笑いに転化しているように思います。
--人物の性格次第で、物語の意味合いが変わってくるんですね。
あらすじは同じでも、どんな人物にするかで、噺のニュアンスは変わります。この噺にこんな解釈があったのか、と驚かされることもよくあります。
斬新な演出は、単にこっちのほうがお客が喜ぶだろうとか、そういう意図で行われる場合もありますが、その落語家の人生観が色濃く投影されている場合もある。落語家自身の人生と、その人の語るストーリーが重なり合う瞬間があるということです。それが落語の最高の醍醐味だと、私は思っています。
よく言われることですが、志ん生の語る夫婦の噺、『火焔太鼓』や『替り目』を聴くと、志ん生とおりんさんという、実在の夫婦を連想してしまいます。志ん生の実人生は半ば伝説化してますから、本当に噺の中に出てくるような夫婦仲だったのか、私にはわかりませんが、志ん生を聴いていると、そういう伝説の部分も噺の中に溶け込んで、虚実ないまぜになって何倍も楽しめる。
『反魂香(はんごんこう)』という噺は、妻を亡くした男やもめが、死んだ女房にひと目逢いたいと、一所懸命に反魂香(じつは「反魂丹」という薬)を焚く笑い噺ですが、八代目三笑亭可楽がやると、じつに寂しく聞こえるんです。調べてみたら、可楽は実際に奥さんを亡くしているんですね。
落語の場合、演者以前に物語が独立してあるわけじゃなくて、語った瞬間、落語家の肉体を通して声になった瞬間に、物語が息を吹き込まれ、動き出すんだという気がします。だから何度聴いても新しいし、落語家の人生を知ってから聴くと、ますます情感が高まる。昨年出した『落語 昭和の名人 決定版』で、落語家の人物伝を主題にしたのは、そんな聴き方をしてほしかったからなんです。
落語は予備知識なしに楽しめる芸能ですが、予備知識があると、さらに面白みが増します。たぶん一生、この深みから抜けられないでしょうね。CD代とチケット代がかさんで、エンゲイ係数は上がる一方です(笑)。
■『落語 昭和の名人 決定版』編集長 小坂真吾
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コメント
企画が変更になり、CDブック東横落語会が出たのかと思ってしまいました。こちらも是非、購入したいのですが、あまりにも高価ですぐには手が出ません。手ごろな価格で、貴重な音源を聴かせてもらえる、本シリーズの続編が確実に発行されることがわかり、一安心しました。気長に待ちますので、次シリーズも①蔵出し音源の発掘②上方の師匠方のラインナップの充実に重点を置いて、よりよいものを創って頂きたいと思います。
投稿: 樋口琢也 | 2010年5月 4日 20時02分