【連載】蕎麦を待つ間に 第24回:通は「蕎麦がき」か「もり蕎麦」か
蕎麦屋の椅子に腰をおろし、「もり蕎麦一枚、お願いします」と注文するときの気分は、鮨屋に入って「コハダ、握ってください」と言うときの気持ちに、ちょっと似ている。まるで「通」になったような雰囲気を味わえるのだ。通は、もり蕎麦。もりを食べなきゃ通じゃない。これが昔から、江戸の蕎麦好きの人々の、合い言葉のようになっていた。
もり蕎麦は、店によっては、せいろなどとも呼ばれる。要するに蕎麦切りを器に盛っただけの、基本のメニューだ。値段も品書きの中では一番安く、もり蕎麦を頼むことを恥ずかしく思ったりする人もいる。しかし、「もり」「せいろ」は、蕎麦屋が最も力を入れているメニュー。この蕎麦が旨くなかったら、ほかのメニューも美味しいはずがない。
もり蕎麦は、シンプルな料理だけに、ごまかしが効かない。この蕎麦の出来映えに、蕎麦職人の腕は、隠しようもなく現れてしまう。そして、単純でいながら奥が深い蕎麦の醍醐味を最も楽しめるのが、もり蕎麦なのだ。
しかし、これに異議を唱える人もいる。もちろん人それぞれ好きなものが異なるのだから、異議があって当然。好みを主張しあえるところもまた、蕎麦の面白さなのだ。
もり蕎麦一辺倒の風潮に、異議を唱える最も有名な人物、それは豊臣秀吉であると、僕は思っている。秀吉は蕎麦がきが大好物だった。秀吉はなぜ、蕎麦切りよりも、蕎麦がきを好んだのか。その理由については、諸説ある。
そのひとつは、秀吉は、農民から身を起こして天下人になった人物。だから農民のころに食べた蕎麦がきが好きだったのではないかという説。果たして、そうだろうか。天下を取り、美味しいものを何でも食べられる立場になったら、もっとほかに美味しいものをいろいろ食べてみるのではないだろうか。むしろ、農民のころに食べていたという理由だけなら、蕎麦がきを嫌いになってもおかしくない。
ふたつめは、秀吉は蕎麦切りを知らなかったのではないかという説。この時代、蕎麦を捏ね、細く切って味わう「蕎麦切り」という食べ方が、まだ広く普及していなかったのではないかという考え方だ。
しかし、「ソハキリ(蕎麦切り)」の文字が初めて記録にあらわれるのは、天正2年(1574)。信濃国、木曽の定勝寺において、仏殿を修理した際、ソハキリを振る舞ったとあるのが、蕎麦切りの初見だ。1574年の時点で、信濃国において、蕎麦切りは、すでにひとに振る舞う御馳走として知られていたのである。
豊臣秀吉が大坂城の築城を開始したのが、天正11年(1583)。「ソハキリ」初見より、9年の後だ。信濃国でそれだけ普及していた御馳走を、天下統一を目指して東奔西走し、おそらく誰よりも各地の情報を集めていたであろう秀吉は、本当に知らなかったのだろうか。当時は、兵糧攻めという戦術もあり、味方の援軍が到着するまで、草の根をかじっても持ちこたえなければならないという局面もあったはずだ。戦時にどのくらい食料を確保しておくかが、勝敗を左右した。食の情報は、戦略上、極めて重要な意味を持つものだ。それを秀吉が知らなかったというのは、少々無理があるのではないだろうか。
そして、東京の老舗蕎麦店『砂場』のルーツは大坂であり、大坂城築城の際の砂置き場に店があったことから「砂場」と呼ばれ、それが屋号になったことは、蕎麦好きの方ならご存知だろう。
この『砂場』の大坂における創業が、正確にいつであったのかが、実はよくわかっていない。しかし、寛永2年(1849)に発行された「二千年袖鑒(にせんねんそでかがみ)」という書物には、大坂の砂場で隆盛を誇った大店二軒のうちの一軒、「津国屋」の創業が、天正12年(1584)であると記されている。これは大坂城築城が始まった年の翌年である。建築資材を置く砂場近くに店が出来たのなら、納得できる時期だ。しかし「二千年袖鑒」が津国屋の創業よりかなり後年に書かれたものであることや、他の書物でこの記述を裏付ける記録が発見されていないため、津国屋の創業が本当にこの年であったのか、疑問視する人もいる。創業の年がいくらなんでも古過ぎるというのだ。
だが、京都に現存する老舗蕎麦屋『本家 尾張屋』は、当初、菓子司として開業したが、その創業年は寛正六年(1465)であるとされている。津国屋より百年以上前だ。その店が現在もまだ、人々に支持され、営業を続けている。津国屋にそれくらいの歴史があったとしても、不自然ではないだろう。
津国屋が天正12年に創業したという記述が事実ならば、秀吉が蕎麦切りを知らなかったという説は、成り立たなくなる。秀吉の時代に大坂城のお膝元で、人気蕎麦屋が繁盛していたことになるのだから。
さて、秀吉の話が長くなってしまったが、ここで言いたいのは、秀吉は蕎麦切りを知っていたが、それよりも蕎麦がきの味が好きだったのではないかということなのだ。農民のころに食べた蕎麦がきは、とても美味しい食べ物だったのではないだろうか。
蕎麦切りと蕎麦がきの材料は、ほとんど同じ。蕎麦粉と水で作るものだが、仕上がりは火と水ほどに違った料理ということができる。
蕎麦切りは、一度茹でたものを、冷水で締めて、それを冷たい状態で味わうもの。この冷たい蕎麦の食べ方が、いつから始まったのかという話を始めると、また長くなるので、ここでは触れないが、現代の食べ方の話として、お読みいただきたい。
対する蕎麦がきは、蕎麦粉と熱湯を素早くかき混ぜ、熱々の状態で食べる料理だ。
「蕎麦切り」と「蕎麦がき」。口に入る蕎麦はそれぞれ、冷たいものと、熱いもの、正反対の状態になる。当然、食味も大きく異なる。
蕎麦がきは、溶けるほどにとろとろの蕎麦の美味しさを味わうもので、反対に蕎麦切りは、少々硬めのコシと風味を楽しむもの。両者は、まったく違う料理なのだから、秀吉が蕎麦切りの味を知っていながら、蕎麦がきのほうを好んだとしても、なんら不思議はないのだ。
「蕎麦がき」もまた、蕎麦の旨さ、醍醐味を十分に堪能できる「通」好みの料理といえる。今度、蕎麦屋に入ったら、品書きを見て、蕎麦がきが載っていたなら、ぜひ、注文していただきたい。以上のような事柄を承知したうえで、蕎麦がきを味わえば、またひとつ新たな蕎麦の世界の扉が開けるに違いない。
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