【連載】幻の日本酒を求めて ~「美丈夫 夢許」
『幻の日本酒』とは?
日本酒の特集などで、幻という表現がよく使われますが、実際には結構飲めたり、手に入ったりするものは多いようです。ところがここで紹介するものは、絶対本数が極端に少ないため、造る前から買い手が決まっていたり、発売した途端に売切れてしまい、人の記憶にしか残らない本当に幻の酒。日本酒にもロマネコンティーはあるのです。
■『美丈夫(びじょうふ) 夢許(ゆめばかり)』(濵川商店・高知県)
蔵元が自分で飲みたい日本酒を徹底的に追求して造り上げた幻の純米大吟醸
高知県の酒蔵の中で最も東部、室戸岬もすぐ近い田野町に「濵川商店」の蔵は建つ。阪神タイガースの安芸キャンプ場からも車で20分ほどと、阪神ファンにも馴染みの深い酒蔵だ。創業は明治37年。当時の屋号は「備前屋」で、銘柄は「濵乃鶴」。現在の人気銘柄「美丈夫」を販売し始めたのは、平成3年頃。発売と同時に東京を中心に一気にブレイク、瞬く間に日本酒ファン垂涎の銘酒として名を馳せた。また2010年に行われる「FIFAワールドカップ南アフリカ大会」公認の、「日本の酒」シリーズのひとつにも選ばれて、先ごろ話題になったばかりだ。この「美丈夫」を立ち上げた、「濵川商店」4代目の濵川尚明さんは、人気銘柄立ち上げの秘話を懐かしそうに、次のように教えてくれた。
「実は私の兄が酒屋を継ぐ予定だったのですが、兄がどうしても文筆家の道に進みたいと家を出たため、大学卒業と同時に私が継ぐことになったのです。大学の専攻は建築関係でしたから、日本酒造りに関してはまったくの素人。杜氏に習って酒造りをしながら、たまに東京へも営業も兼ねて通うようにしていたのです」
当時の「濵川商店」の酒は質より量で、普通酒がほとんど。それが、濵川さんが28歳の頃、東京で吟醸酒に出会い、その質の高さ、美味しさに衝撃を受けた。そして美味いと言われる吟醸酒を次々と飲みあさりながら、自分でも吟醸酒を造ってみたいと思うようになったという。
「当時の杜氏は昔ながらの酒しか知りませんでしたから、私が県内の酒蔵に吟醸酒造りを教えてもらったり、吟醸用の酵母を県の試験場から分けてもらったり、松山三井という吟醸の酒造りに適した米を試したりしながら、吟醸酒造りに没頭したのです。そして30歳の頃には県の新酒鑑評会でもトップクラスの評価を得ることができるようになりました。と同時に、東京へ通っていたときに知り合った『はせがわ酒店』の長谷川浩一社長にも新酒をその都度送り、全国の新酒鑑評会でも金賞を受賞できるようにするにはどうすればいいのか意見を求めていたのです。その長谷川さんが数年後、〝よっしゃ、この酒だったら〟ということで、名付けてくれたのが『美丈夫(びじょうふ)』。美男子という意味で、坂本龍馬をイメージした言葉でもあるのです。粋な名前でしょ。私もすっかり気に入りましてね」
そう笑う濵川さんだが、雑誌などでも紹介され、『はせがわ酒店』から売り出されるや注文が殺到。ところが最初は造る量が少なく、肝心の商品がまったくない状態だったという。それからは、年を重ねるごとにタンクを増やし、ようやく全国の注文に応じられるようになった。しかし、あくまで濵川さんが自分の舌で美味いと思う酒を追及してきた結果、「美丈夫」として販売されるのは、今でも精米歩合60%以下の限られた特別名称酒のみだ。
ところで、蔵の上流に位置する安芸郡北川村や馬路村は村の90%を森林が占め、降雨量も高知県で最も多いところ。その山々から下流の大地へと伝わってくる清流の伏流水は、超がつくほどの軟水で、体にスゥーッと溶け込むように感じるほどだ。この伏流水を汲み上げ、手作業の吟醸造りで丹念に仕込まれた「美丈夫」なればこそ、繊細な香りと肌理細やかで芳醇な味わいの銘酒に仕上がるのだろう…。と、杯を傾けながら目を細めていると、「これも、試してみてください」と、濵川さんが新たに口開けた酒を注いでくれて、また驚いた。
顔を近づけると、控えめだが、かえってそれが愛おしく感じられるような甘い果実の香りに包まれた。口を付けると、その口当たりの柔らかさ、その瑞々しさといったら、頬も緩むほどにうっとりである。しかも口の中では、弾けるような濃醇な艶かしい旨みまで溢れてきたではないか。まさに男にとっては「美男子」というより、憧れの「絶世の美女」そのものだ。
「これは、平成9年から、蔵で最高のものを造ろうと手がけた『美丈夫 夢許』です。どうです、気に入りましたか?」
あまりの美味しさにあっけに取られていたところ、そう濵川さんが笑いながら声をかけてくれた。米は兵庫県の東条町産の特Aの山田錦を3日以上かけて、30%にまで削り、すべて手洗いする。蒸した米はわざわざ手間暇かけて地表の冷気で自然に冷まし、麹もすべて手造り。酵母は熊本酵母を使用し、酵母がやっと活動できる最低の温度管理を行いながら、じっくりひと月以上かけて仕込む。そして出来上がったモロミは、酒袋に入れて吊るされ、圧力をかけずモロミ自体の重さで酒が滴り落ちる袋吊り。しかも、その中でも最高の状態の酒だけが集められた中汲みだ。それを瓶詰めして、さらにマイナス1度前後の冷蔵庫で約6か月間貯蔵するという、手作りの技と時間を惜しみなくかけたもの。年間、一升瓶に換算すると、約300本のみという、稀少な幻の純米大吟醸なのである。
「つまり『夢許』とは、わずかばかりという意味。でも、私が初めて東京で出会って驚いた吟醸酒への思いを、これからのみなさんにも、また若い蔵人にも伝えたいという気持ちを込めて立ち上げました。こんな小さな蔵でも、頑張ればいい酒は造れるということも、わかってもらえれば嬉しいですね」
現在、濵川さんを含め蔵人は6人。今の杜氏は地元の安芸市出身、酒造り30年、濵川さんより1歳下の同年代で、見つめる方向は同じというのも心強い。同業者から、「間違いのう美味いけど、儲けはなかろうが」と冷やかされるという『美丈夫 夢許』。しかし、蔵元の魂がこもっているこの酒は、毎年9月に限定発売されるや即完売というから、出会えた方は間違いなく、夢のような幸せ者に違いない。
■ライター・田中宏幸
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