【昭和が目にしみる】 第4回:城山三郎展覧~父の背中に会いに行く その4
小さな取材秘話
元・新潮社の梅澤英樹さんは『落日燃ゆ』のほか、城山さんのヒット作品を何冊も手がけた文芸編集者。とくにA級戦犯・広田弘毅の実像を描いた『落日燃ゆ』は、今日も城山さんの代表作として書店の棚から切れることはない。当初このタイトルは著者本人と意見が合わず一度は決裂したという。城山さんが提案したタイトルは『自ら計(はから)わず』。作品が発表された昭和49年は田中角栄の全盛期。権力と金脈が大手を振って闊歩する風潮のなかで、広田の生き方「猟官や金儲けを自ら計らうことなく、必要とされる時と場を待つ」を直球に反映させたものだった。これに対し、『落日燃ゆ』を提案した梅澤さんに、「僕には意味がわからない」とぽつんと漏らしたという。
「くれとす」の初期、城山さんは詩に向かったことがあった。響き、リズム、字面……後年の色紙や名言がぴたりと決まるのも、詩人としての一面があったからこそと思う。後年には『支店長の曲り角』という詩集も出している。城山さんの詩はどれも質実剛健である。ユーモアもあるがイメージ遊びや冗語法を極力廃し、人間の行ないを精確な言葉に移し替えることに注意が集中されているように見える。そんな城山さんは、「広田」と「落日」、あるいは「日本」と「落日」が結びつかなかった。「落日」とは何かという答えを、自作のどこからも見いだせなかったのだろう。
けっきょく、容子夫人の「あなたの作品のなかで一番いいタイトルじゃない」という一言で、梅澤案が採用となった。
さて、梅澤さんは『落日燃ゆ』という、新刊なのにいきなり古典としての風格を持つタイトルをどこで思いついたのか。
梅澤さんの知り合いに、Bという作家志望の高校教師がいたそうだ。今はもう定年でやめているはずだが、当時は東京・目白の学習院高等科で教鞭を執っていて、Bは昔から小説を書いていた。梅澤さんは縁あって彼の小説を出版しようとしたが、ある事情でその話は流れてしまった。そのときのBの小説のタイトルが「燃ゆる」という言葉を使ったもの(燃ゆる恋 命燃ゆる?……当方の記憶が曖昧)で、ずっと頭に残っていた。すごく古風な言葉を使う人もあるものだと。そこで、城山さんの原稿に接したとき、『落日燃ゆ』が浮かんだのだそうだ。その話を聞いていて、とても懐かしくなった。
「梅澤さん、Bさんの<燃ゆる>というタイトルにはまちがいなく出典があります。そういうことだったんですか。学習院には幼稚園から大学院まで共通の校歌に『院歌』というのがあって、その1番の歌詞が<もゆる火の 火中(ほなか)に死にて また生(あ)るる 不死鳥のごと 破(や)れさびし 廃墟の上に 立ち上がれ 新学習院>というんです。中学と高校で応援団なんてとこにいたので、何百回歌ったかしれません。詩は安倍能成です。戦後生まれから見るといい意味の煮くずれた雅味があって、今歌っても名曲だと思います。同窓会なんかではいい親父が大合唱してますもん。それからわたし、B先生の教え子です」取材を忘れ、しばしB先生の思い出話に花が咲いた。B先生は、生徒にはもちろん小説を書いていることは伏せていた。しかし、何代か前の先輩が同人誌に載ったB先生の小品をどこかで読んだらしい。青春小説だった。ソ連の女の子と日本人の男の子の恋の話で、青い目に入った埃を、男の子がそっと舌で舐めとってあげる場面があった。その1点を、先輩たちは鬼の首でもとったように茶化し、冷やかし、信じられないようなあだ名をつけて囃したそうだ。それから5年ほどたったのだろうか、我々の代の悪のオピニオン・リーダーが、どこからか古い話を聞いてきて、あだ名を復活させるべく、B先生の授業前に黒板に書いたところ、私の記憶が正しければ、B先生がなんだかものすごく悲しそうな顔をされた。我々生徒も、さすがにそれは非道いだろう、という空気になり、悪のリーダーの“ひとりはしゃぎ”に追随者は現われなかった。これは昭和53年ころ、『落日燃ゆ』発表から4年後の極私的思い出話。
■サライ編集部 副編集長 井本一郎
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