昭和が目にしみる 第11回:日本でいちばん遠い国・高知へ行こう
ひさしぶりに高知県を走りに走った。2泊3日で600km。高知県「土佐・龍馬であい博体験ツアー」に参加したのだ。岡豊、桂浜(浦戸)、梼原、四万十、中村、松尾、足摺――筆舌に尽くしがたい体験だった。もっと正確に言えば、筆については全部書いてもいいが、そうするとこの連載を10回やっても終わらないくらいの量になり、舌については何を書いても全部自慢話、嫌味になるから、やっぱり筆舌を尽くしてはいけないのである。旅の本音は、帰宅後に出る。旅を終えてもう2週間もたつというのに興奮いまださめやらず、誓った再訪はいっこうに色あせず固い約束のようにのしかかってくるのはなぜなのか。高知には日本の野生がある。飼いならされた観光地ではなく、行くたびに異なる景色を見せてくれる。まるで源泉かけ流しのような観光資源が今日も滔々と涌出している。
■帽子パンの町・高知市
東京からの高知便は機窓からの眺めが楽しい。できれば右側の窓際の座席を予約したい。羽田空港を離陸した飛行機は太平洋ベルトに沿って西へ向かう。房総、三浦、真鶴、伊豆とおなじみの半島を眺めながら中景に富士を見て、前回記した「崩れ」地形と御前崎からの大砂丘を通過、紀伊半島の根元を横切り、大きく南西に翼を振って四国洋上に出て高知龍馬空港に着陸する。飛行時間85分。あっという間である。しかし、四国はここからが深い。西の足摺までは4時間弱、宿毛まではさらに。東京から半日かけてもたどりつけない。
着陸した空港の名は高知龍馬空港という。かつては高知空港といわなかったか。いつのまにか「龍馬」の名がついた高知観光の玄関口で、わざわざ東京からかけつけてくれた高知県東京事務所の柏井さんと、土佐・龍馬であい博推進課の梅原さんと合流。県内各所で開催されている「土佐・龍馬であい博」のサテライト会場をめぐる1泊2日の長い旅に出る。
岡豊、桂浜(浦戸)、梼原、四万十、中村、松尾、足摺――スケジュールを見ると県内を大きくまわるので、おのず高知市内そのものについて旅の期待というものを準備していなかった。それだけに梅原さんが高知市の“自己紹介”がわりに用意してくれた「帽子パン」と「ミレービスケット」はとてもうれしかった。いきなりサブカルチャーから記すけれど、愛情とは対象となるものの細部に対する興味関心偏愛の集積みたいなものだから、「帽子パン」と「ミレービスケット」は、今回抱くに至った高知県への愛情の大切な一部であることは確かである。
帽子パンとはアダムスキー型UFOと同じ形をしたツバのあるパンのこと。高知では子供のころからみんなあたりまえに食べていて、知らない人はないらしい。誕生説はいろいろあるが、わたしが聞いたのはメロンパンのシロップが固まらずに流れ落ち、それが窯の底でジュッと固まってつばになったというもの。味もメロンパンと同じく千差万別、食感もツバ部分がふわふわしたもの、カリカリしたものといろいろあるという。今回食せたのは『ベルゲン』というパン屋さんの帽子パン。ツバがカリカリで甘香ばしく、UFOの船室はふっくらして、やみつきになりそうな楽しさである。ツバをひとくちかじっただけで笑顔になる。もうひとつは『ミレービスケット』、直径1寸程度の小麦ビスケットだが、油がしっかり染みとおり、塩気と甘みがずっしり拮抗していて、ひとつひとつ「しっかり食った」という印象を刻みこむ。たとえばモルトウィスキーのつまみにもいいんじゃないかと思った。

■井本メモ 「帽子パン」の店 ベルゲン本町店 〒780-0870 高知県高知市本町5-1-4 tel:088-822-6646
『ミレービスケット』は、野村煎豆加工店の商品。商品の詳細は、以下のウェブサイトで。
http://www.umaitosa.com/nomura/index.html
■高知県立歴史民俗資料館の充実ぶりに驚く
1番目の訪問地は岡豊。豊かなる岡と書いて「おこう」と読む。いまは静かな丘陵地帯にすぎないが、平安時代には国府があり、『土佐日記』を書いた紀貫之もここで政務を執った。さらに四国の雄・長宗我部家の居城だったところでもある。
空港を出たわたしたちは、まず岡豊城の城跡に建つ高知県立歴史民俗資料館へ向かった。ここで8月末日まで開催されている「土佐・龍馬であい博」の特別展「龍馬伝」を観るだめだ。
高知を訪れる前にしっかり頭に入れておくべきだった、と後悔したことがある。四国統一をなしとげた戦国時代のヒーローである長宗我部元親(1539~99)と、関ヶ原のあと長宗我部家にとってかわった山内一豊(1545~1605)のことである。資料館で売っていた、長宗我部家の末裔・長宗我部友親氏が著した、秦の始皇帝から当代にいたる年代記『長宗我部』を帰京後に一気に読んだ。これを読んでから高知へ行くのと、読まずに行くのとでは、その印象はまったくちがったものになっただろう、そう後悔した。先祖といわれる始皇帝のような覇権を夢見ながら逝った長宗我部国親、その遺志を継いで四国統一をなしとげた元親、徳川と縁がありながら関ヶ原でどうしたことか豊臣側につき、挙句、京都市中を引き回しのうえ斬首された正親の末子、盛親。この3代の盛衰譚は胸にせまる。本書を読めば、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』の見方も変わってくる。ドラマをきっかけに、「龍馬ってどんな人だろう」という興味がわいたならば、「龍馬が育った土佐って、どんなところだろう」という問いにつながり、「龍馬はなぜ親きょうだいを棄て、脱藩によって親きょうだいに災いが及ぶと知りながら土佐を出た(脱藩した)か」という問い突き当たる。その深い答えが、この本にはある。龍馬を語るときにかならず出てくる言葉が、「上士」と「郷士」。おなじ土佐藩士でありながら、上士と郷士という酷い身分差別があり、龍馬は郷士だった。郷士とは長宗我部に仕えた職業武士、上士とは徳川時代になり長宗我部が追放された後に山内とともに外来した階級としての武士のこと。身分社会の江戸時代に士分の上士がふんぞりかえるのは容易に想像がつく。だがなぜ郷士がそれほどまで上士から苛め抜かれたのか、なぜ郷士は幕末まで反骨を温存できたのかが理解できなかった。それがようやくこの本で解決した。
徳川が全国を統治する以前、長宗我部家と家臣、下級武士にいたるまで彼らには長い命がけの前史があった。四国はわれわれが血と汗を流して統一した、という誇りがあった。土佐の下級武士を「一領具足」という。半農半兵の生活を送る彼らも、長宗我部家とともに四国を統一した武士の矜持を持つ。土佐は家長から下級武士にいたるまで、ものすごく重いのである。だから1回戦から勝ち上がった信長でも、その切り込み隊長の秀吉でもない、いわばシード戦の勝者に見える徳川と、その幕府から土佐の大名として派遣された山内という無名の外様の「軽さ」に、耐えがたい屈辱や無力感を抱いたのではないか。郷士は上士の経験と歴史、すなわち人間の軽さを嗤い、上士は郷士の身分の軽さを嗤う。けだし心の深層で嘲笑をなすりあう上士と郷士の和解は不可能となる。
そのほかにも、本書には、なぜ県下最大の平野を高知平野と呼ばず香長(かちょう)平野と呼ぶのか、高知県西部・中村市に京都の公家文化が残るのはなぜか。龍馬像が立つ桂浜というのは郷士にとってどんな場所だったのか、興味深い話がひとつの流れのなかで語られる。絶好の高知の教科書だった。

『長宗我部』(長宗我部友親著 バジリコ)
高知県立歴史民俗資料館が建つ岡豊城跡は、保元の乱で敗れた、秦(長宗我部の先祖)能俊の配流地だった。保元の乱とは、崇徳上皇(バックには藤原頼長、源為義)と後白河天皇(バックには藤原忠通、平清盛・源義朝)が皇位継承をめぐって争った内乱で、結果は後白河方が勝利するも、これを機に中央政治に武士の台頭を許すことになった。
この資料館で開かれている特別展「龍馬伝」は、龍馬関係の資料194件(重要文化財11件)を、
①土佐に生まれて
②龍馬飛騰
③薩長同盟成る
④夢は世界に、
の4部構成で展示する。8月末日で会期終了だが、このあと10月8日~11月23日に開催予定の「幕末維新土佐庶民生活誌展」も興味深い。
特別展「龍馬伝」の展示品の一部は次の通りだ。


●井本メモ
高知県立歴史民俗資料館 南国市岡豊町八幡1099-1 電話088-862-2211
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~rekimin/
上左/山内容堂が持っていた硯。上中/岡田以蔵所が持っていた拳銃。上右/龍馬が姪・春猪に宛てた書状。下左/龍馬の師・河田小龍の絶筆といわれる朱竹図屏風。下右/土佐勤王党・平井収二郎が、山内容堂の命で切腹前に爪で掻いた辞世。
私事になるが、昨年から今年にかけて『サライ』で立て続けに幕末・明治の特集を担当した(12月号「坂の上の雲を愉しむ」、2月号「坂本龍馬を語る」)。正直、しばらく幕末から明治(そして昭和につながる)の血の臭いには触れる気がしなかった。前出の岡田以蔵の弟から出たという拳銃や爪で削った辞世、そして河田小龍の朱竹図にいたってはその朱が血墨に見えたほどである。異なる思想を持つだけで背中からけさ斬りにされる時代である。理不尽を超えたまるでホラーではないか。
目を凝らして1点ずつの展示品を凝視する。彼らの切実な声を聞き取ろうとする。運動や思想はかならずしも大義のためばかりではあるまい。自己実現のため、怨みのため、立身出世のため、自分探しのため、さまざまな思いで歴史の日の当たる舞台をめざしたひとりひとりの遺品を眺め、こうしたばらばらの思いが大きな時代の意志となってうねり、のたうち、徳川幕府を覆い尽くし、わが故郷・東京を焼いたのかと思うと気持は複雑だ。
次の訪問地は桂浜。有名な坂本龍馬像と、高知県立坂本龍馬記念館を観覧する。この桂浜も、前出の『長宗我部』を読むと、土佐の郷士にとっては特別な場所であることがわかる。
桂浜は四国統一を成し遂げた長宗我部元親が、10代の初陣で勝利を飾った場所という。そのとき奪い取った浦戸城は、その後元親の居城となる。しかし、元親の子、盛親が斬首され、徳川の外様大名・山内一豊が土佐に来ると浦戸城をあとかたもなく廃し、大高坂山に高知城を築く。
時代は下って大正の末、長らく忘れられていた長宗我部家中興のヒーロー元親の居城跡に、高知の青年たちによる寄付がはじまり、昭和3年、現在の龍馬の銅像が建ったのである。この年、旧満州では張作霖爆死事件が起きた。
龍馬像にはおもしろいエピソードがいくつもある。全国龍馬社中の会長、橋本邦建が案内、解説してくれた。
まず、桂浜は砂利の海岸であることを覚えておきたい。これを知っておくと、テレビなどで龍馬が砂浜を歩いていたら、すぐにロケ地がうそだとわかる。ちなみにこの砂浜、丸く磨かれ色づいた石が流れ着きやすく、五色石というきれいな石も拾える。
龍馬の銅像はもともと高知の青年たちが「コーヒー1杯20銭を寄付しよう」といって大正の末から寄付を募り、8000万円を集め、昭和3年に建てられた。いまなら2億円くらいになるらしい。なにしろ学生たちの計画である。最初、桂浜を見下ろす現在地に銅像を建てようと衆議一致したものの、肝心の土地所有者がだれだかわからず、学生たちはとりあえず「坂本先生記念碑建立予定地」の看板を立ててみたそうである。すると土地所有者が「人の土地になにをする」と怒って名乗りでた。ここで初めて交渉がはじまり、事情を説明し了解をとりつけた。いかにも学生らしい元気な手段だ。
じつはこの銅像、「龍馬は海軍(海援隊)の創始者」ということで、室戸にある陸軍(陸援隊)の創始者・中岡慎太郎の銅像とともに戦時中の金属供出を免れている。長宗我部元親と板垣退助の像は溶かされてしまったそうだ。
その後、平成11年に2億円で龍馬像を修理、これも寄付でまかなった。まず像内の傷み具合を調べるため、右下の部分(写真丸囲み部分)を切り取って、橋本会長が中に入り、のぞいてみると錆びが随所に見えた。鳥の糞も落ちていた。調査の結果、大修理が必要と分かり、台座から下におろして補修することになった。すると、像の建造にかかわったという80歳をこえた元「青年」から、「なんで龍馬先生を台からおろすがか、戦争でも地震でもおろさなかった銅像やき、おろしたらいかん」と叱られた。「規模が大きいのでおろさにゃ無理です」と橋本さんが説得、どうにか了解を得た。
修理はまず、①首から襟②肩から胸③胸から腹④臍から下、の4つの部分から成る像を解体。補修作業をおこない、錆びて接合部から抜け落ちていたボルトを含め、1本数万円のステンレスのボルトを236本新調し、締め直した。また銅内の空洞部分にステンレスの型枠を入れ補強もした。この像は、今も京都のおりょうの像と向き合っている。

隣接して建つ高知県立坂本龍馬記念館は、「銅像だけでは龍馬の業績を伝えられない、もっと龍馬のことを知ってもらう施設はできないか」ということで、1300人の青年会議所、商工会議所などの高知県の現代の「青年」たちが約8億円も集め、高知県に寄付。県がさらに2億円を出し、平成3年11月14日に開館した。来年でもう20周年を迎えるそうだ。ふつうは年間12、3万人の入場者があるが、今年は好調で、6月時点ですでに20万人に達した。
ここでの見ものは、龍馬の〝妻〟おりょうの「2つの顔」について警察庁の機関である科学警察研究所が鑑定書を出していて、それが展示されていること。おりょうには、若いころの写真と、晩年の2枚の有名な写真が伝わる。最近は若いころの美しい写真をよく見かけるようになったが、史料として確実なのは晩年のやや神経質そうな顔のほうであるという。この2点の写真を、犯罪捜査で知られる科学警察研究所の法科第一生物室(犯罪捜査にかかわる人体組織の形態学の研究・実験や、形態学を応用する鑑定・検査に関することをとりあつかう)が調査し、鑑定したのである。鑑定結果は「同一人物の可能性がある」。たったそれだけだが、この結論にいたる詳細な比定プロセスがおもしろい。
昨年からの取材中、研究者の間ではこの2枚は別人との声をよく聞いた。若いころの写真の背景があまりに高級な写真室であること、写真の裏に同じサインの入ったものが複数出ていること、などから、これは「りょう」という名の芸者などのブロマイド的な写真ではないかというのである。これは裏をとった話ではないので、あくまで噂話として記すにとどめる。
左/科警研の調査報告書から。右/科警研の鑑定結果。
●井本メモ
高知県立坂本龍馬記念館 高知市浦戸城山830 電話088-841-0001
http://kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/
■サライ編集部 副編集長 井本一郎
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